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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 六 】
37/50

眠れる陸海空 6

 初秋の夜、月若邸は沁みるような静けさに包まれている。

「菊火、遅いな。帰るまで待ってよう」

 そう言った虎太郎は早々にやってきた眠気に撃沈され、心配性の竹蔵は玄関を抜け出て軒先に立っていた。透ける江戸町人を見てしまった者は肝を冷やすだろうが、夏の置きみやげということにしてもらおう。


 藍は明かりを落とした縁側から顔をあげる。三日月はいっそう細くなっており、松の葉のあいだに星ばかりが目についた。

 新月がまぢかに迫っている。しかし藍は、月が姿を隠す時を恐れない。

 あの日、初めてこの名を呼ばれた瞬間。

 もう二度と道を失わないという確信が身を打った。

 そして、その強い気持ちを受けとめたとたんにひらけた新しい景色は、妖の魂のもっとも深くまで焼きつき、千年を過ぎても薄れることはなかった。

 もしかすると、自分が消え去った後にさえこの世のどこかに残るのではないか、と藍はひそかに思っている。



「菊姐さん、やっとお帰りで! どこまで行っちまったかと思いましたよ」

「そんな騒がないでよ、朝帰りしたんじゃないんだからさ……」

 元気な声がして、虎太郎は居間の片隅で薄目を開けた。

 よかった、無事だった。

 起きあがろうとしたが、睡魔に押しつぶされるようにして寝床に沈む。みんな屋敷にいるという安心感があらがうことを遠ざけ、ふたたび眠りに落ちていく。

 しかし彼の意識は、上掛けに埋もれる寸前に少しだけ跳ねた。


 そうだ、藍に伝えないと。

 夢に花を見た。

 薄い紅色をした五枚の花びらが、大きな葉のしげる枝に数えきれないほど咲いていた。緑かがった細い幹、あれが何の木か藍は知っているだろうか……

 まぶたが閉じ、考えは途切れた。

 それにかわってはるかな話し声がよみがえる。


「藍澄、惜しい。まだ額の角が出ている」

「なんと。すっかり隠したと思ったが」

「里に下りるまでに間に合えばよい。いざという時は墨で塗るか」

 楽しそうな道士と、妖のため息。

「やれやれ。これしきの角、人の範疇はんちゅうに収めてほしいものだ……」

 落ち葉を踏みわける音。出会ったばかりの秋だ、と気づくと、冬支度をはじめた山道の乾いた香りがよみがえるようだった。


 そんなこともあった。とても遠い時間だけれど、確かにあった。



 そして真綿のような眠りがおとずれた。

 ふたつの時をつなぐ夢を待つ青年を、座敷に据えられた陸海空が守りつづけている。湧き出す祈りにはいつか響いた潮騒が重なり、時おり大きなはばたきの音が混ざるようだった。



(第六話 了 )

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