眠れる陸海空 6
初秋の夜、月若邸は沁みるような静けさに包まれている。
「菊火、遅いな。帰るまで待ってよう」
そう言った虎太郎は早々にやってきた眠気に撃沈され、心配性の竹蔵は玄関を抜け出て軒先に立っていた。透ける江戸町人を見てしまった者は肝を冷やすだろうが、夏の置きみやげということにしてもらおう。
藍は明かりを落とした縁側から顔をあげる。三日月はいっそう細くなっており、松の葉のあいだに星ばかりが目についた。
新月がまぢかに迫っている。しかし藍は、月が姿を隠す時を恐れない。
あの日、初めてこの名を呼ばれた瞬間。
もう二度と道を失わないという確信が身を打った。
そして、その強い気持ちを受けとめたとたんに開けた新しい景色は、妖の魂のもっとも深くまで焼きつき、千年を過ぎても薄れることはなかった。
もしかすると、自分が消え去った後にさえこの世のどこかに残るのではないか、と藍はひそかに思っている。
「菊姐さん、やっとお帰りで! どこまで行っちまったかと思いましたよ」
「そんな騒がないでよ、朝帰りしたんじゃないんだからさ……」
元気な声がして、虎太郎は居間の片隅で薄目を開けた。
よかった、無事だった。
起きあがろうとしたが、睡魔に押しつぶされるようにして寝床に沈む。みんな屋敷にいるという安心感があらがうことを遠ざけ、ふたたび眠りに落ちていく。
しかし彼の意識は、上掛けに埋もれる寸前に少しだけ跳ねた。
そうだ、藍に伝えないと。
夢に花を見た。
薄い紅色をした五枚の花びらが、大きな葉のしげる枝に数えきれないほど咲いていた。緑かがった細い幹、あれが何の木か藍は知っているだろうか……
まぶたが閉じ、考えは途切れた。
それにかわってはるかな話し声がよみがえる。
「藍澄、惜しい。まだ額の角が出ている」
「なんと。すっかり隠したと思ったが」
「里に下りるまでに間に合えばよい。いざという時は墨で塗るか」
楽しそうな道士と、妖のため息。
「やれやれ。これしきの角、人の範疇に収めてほしいものだ……」
落ち葉を踏みわける音。出会ったばかりの秋だ、と気づくと、冬支度をはじめた山道の乾いた香りがよみがえるようだった。
そんなこともあった。とても遠い時間だけれど、確かにあった。
そして真綿のような眠りがおとずれた。
ふたつの時をつなぐ夢を待つ青年を、座敷に据えられた陸海空が守りつづけている。湧き出す祈りにはいつか響いた潮騒が重なり、時おり大きなはばたきの音が混ざるようだった。
(第六話 了 )




