眠れる陸海空 4
吹きすさぶ嵐は黒い渦となり景色をおおい尽くす。
もがき伸ばしたみずからの腕さえ見えない。絶望と怒りに添って雨風はいっそう荒れるが、まさにその嵐が自分自身であると思い出すにはいたらなかった。
すると、混沌の隅でなにかが鳴る。
「……かぜ、よ……」
声。この身のものだろうか?
「黒の風、狂うな……」
いや違う、あれは敵だ。なれば葬り去ってくれよう。
地の底を割るような轟音をまといむかっていく。やがて闇の中に標的を感じとった。急速に近づいている、もうすぐそこに。
届く。
本能にまかせ手を一閃させると、鋭い爪が相手を裂く感触があった。飛沫を受ける。燃えるような熱さを感じ、戸惑いと問いが芽生える。
これは何だったろうか。
ざあっと音をあげて周囲が揺れた。吹き溜まった感情がぐるりとめぐり、目の前の黒が薄れかける。そこへ、よく張った鼓を打つように声が響いた。
「そうだ、いっそうに開くがいい。お前の眼はなお深い!」
言葉と同時になにかが心にふれる。
やわらかく揃った、なめらかな動きになでられ、逆立っていた意識がすうっと凪いだのがわかった。
視界が晴れていく。見下ろした先には折れた枝木の散らばる地面があり、そこにひとりの人間が立っていた。
「黒ではなく、墨の風とは」
行者姿の青年は感じ入ってつぶやき、漆黒の霧の中に開いた二つの眼に語りかけた。
「話をしないか。せっかくの満月だ」
天をさす腕には長い傷が刻まれ、血がしたたっている。だが、彼が気にするのは相手の返事だけだった。
秋の風があたりを駆けてゆき、高々と伸びた木々がざわめく。ひとしきり山が鳴った後の静けさに誘われ、黒い霧は地に舞い降り、静かに形をとった。
ふっと舞い上がる墨染めの装束、それはずっと古い時代の物だ。流れる黒髪。三つの白い角と爪牙を持つ鬼が、薄色の目をゆっくりとまたたかせた。
「私は……」
と両手を見つめる。たったいま人間を傷つけた手に、鮮やかな赤が色をつけていた。
それと同じものを持っていたはずだった。
穏やかな都。墨と紙の香り。
筆を持つ手は使命感につき動かされている、作為のない記録を後代に残そうと。
そして、それをはばむ者がいた。
向けられた憎悪と突き刺された刃の冷たさが、身体のうちでつながる。こぼれた墨と流れ出た血がひとつになり……
記憶はふと解け、胸に穴の開いたような感覚だけが残った。
長い間をおいて、行者が静かに尋ねた。
「過去を求めるか」
うつろな答えが返る。
「……字を書いて生きた。それだけだ」
時が流れすぎたことはわかっていた。復讐すべき敵などどこにもいないのだ、と木立ちへ身を向ける。
「どこへゆく」
「無に還る。黒の中に一切を沈め、終わる」
「待て、ひさびさに書いてはどうだ? 古の書を教えてくれ」
行者が筆を握る手を差し出す。鬼は立ちどまったが、首を横にふった。先ほど心を落ちつけた感覚、あれは穂先だったのだ。最後にそれを知れてよかった。
しかし行者はしっかり目をあわせ、「それでは、私が名を与えよう」と言い出した。
「なんと……?」
問いかける唇に牙がのぞくが、人間はかまわず中空に筆をおく。
「黒もいいが、お前の本質は」
と、伸びやかに進めた筆の跡は残らなかったが、月光をこえて鬼の心にまっすぐ届いた。
藍
「青の青きにこそ澄む」
そう言いきった宗月は、「どうだろうか、藍」と明るく笑った。
いま千年を越え、妖は今代の青年を前にしている。
「宗月は、同じ書に通ずるものとして力を貸すよう私に頼んだ。それから供として諸国をまわりはじめたのだ」
宗月の術を助け、救いを求めることさえ忘れた魂に手を差し伸べ。しかし……
「なにより助けられていたのは、この私だった。あの日々には気づかなかったが」
と、藍はにっこり笑った。
その時、虎太郎の胸は不思議な充足感で満たされた。これはきっと宗月としての気持ちなのだろうと彼は納得する。
そして、月若虎太郎の気持ちになってこう言った。
「……お前、やっぱり最初は怨霊だったんじゃないか」




