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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 六 】
35/50

眠れる陸海空 4

 吹きすさぶ嵐は黒い渦となり景色をおおい尽くす。

 もがき伸ばしたみずからの腕さえ見えない。絶望と怒りに添って雨風はいっそう荒れるが、まさにその嵐が自分自身であると思い出すにはいたらなかった。

 すると、混沌の隅でなにかが鳴る。

「……かぜ、よ……」

 声。この身のものだろうか?

「黒の風、狂うな……」


 いや違う、あれは敵だ。なれば葬り去ってくれよう。


 地の底を割るような轟音をまといむかっていく。やがて闇の中に標的を感じとった。急速に近づいている、もうすぐそこに。

 届く。

 本能にまかせ手を一閃させると、鋭い爪が相手を裂く感触があった。飛沫を受ける。燃えるような熱さを感じ、戸惑いと問いが芽生える。

 これは何だったろうか。

 ざあっと音をあげて周囲が揺れた。吹き溜まった感情がぐるりとめぐり、目の前の黒が薄れかける。そこへ、よく張ったつづみを打つように声が響いた。

「そうだ、いっそうに開くがいい。お前の眼はなお深い!」



 言葉と同時になにかが心にふれる。

 やわらかく揃った、なめらかな動きになでられ、逆立っていた意識がすうっと凪いだのがわかった。

 視界が晴れていく。見下ろした先には折れた枝木の散らばる地面があり、そこにひとりの人間が立っていた。

「黒ではなく、墨の風とは」

 行者姿の青年は感じ入ってつぶやき、漆黒の霧の中に開いた二つの眼に語りかけた。


「話をしないか。せっかくの満月だ」

 天をさす腕には長い傷が刻まれ、血がしたたっている。だが、彼が気にするのは相手の返事だけだった。

 秋の風があたりを駆けてゆき、高々と伸びた木々がざわめく。ひとしきり山が鳴った後の静けさに誘われ、黒い霧は地に舞い降り、静かに形をとった。



 ふっと舞い上がる墨染めの装束、それはずっと古い時代の物だ。流れる黒髪。三つの白い角と爪牙を持つ鬼が、薄色の目をゆっくりとまたたかせた。

「私は……」

と両手を見つめる。たったいま人間を傷つけた手に、鮮やかな赤が色をつけていた。


 それと同じものを持っていたはずだった。

 穏やかな都。墨と紙の香り。

 筆を持つ手は使命感につき動かされている、作為のない記録を後代に残そうと。

 そして、それをはばむ者がいた。

 向けられた憎悪と突き刺された刃の冷たさが、身体のうちでつながる。こぼれた墨と流れ出た血がひとつになり……


 記憶はふと解け、胸に穴の開いたような感覚だけが残った。

 長い間をおいて、行者が静かに尋ねた。

「過去を求めるか」

 うつろな答えが返る。

「……字を書いて生きた。それだけだ」

 時が流れすぎたことはわかっていた。復讐すべき敵などどこにもいないのだ、と木立ちへ身を向ける。

「どこへゆく」

「無に還る。黒の中に一切を沈め、終わる」

「待て、ひさびさに書いてはどうだ? 古の書を教えてくれ」

 行者が筆を握る手を差し出す。鬼は立ちどまったが、首を横にふった。先ほど心を落ちつけた感覚、あれは穂先だったのだ。最後にそれを知れてよかった。



 しかし行者はしっかり目をあわせ、「それでは、私が名を与えよう」と言い出した。

「なんと……?」

 問いかける唇に牙がのぞくが、人間はかまわず中空に筆をおく。

「黒もいいが、お前の本質は」

と、伸びやかに進めた筆の跡は残らなかったが、月光をこえて鬼の心にまっすぐ届いた。


 藍


「青の青きにこそ澄む」

 そう言いきった宗月は、「どうだろうか、藍」と明るく笑った。




 いま千年を越え、妖は今代の青年を前にしている。

「宗月は、同じ書に通ずるものとして力を貸すよう私に頼んだ。それから供として諸国をまわりはじめたのだ」

 宗月の術を助け、救いを求めることさえ忘れた魂に手を差し伸べ。しかし……

「なにより助けられていたのは、この私だった。あの日々には気づかなかったが」

と、藍はにっこり笑った。


 その時、虎太郎の胸は不思議な充足感で満たされた。これはきっと宗月としての気持ちなのだろうと彼は納得する。

 そして、月若虎太郎の気持ちになってこう言った。


「……お前、やっぱり最初は怨霊だったんじゃないか」

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