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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 六 】
32/50

眠れる陸海空 1

 険しい山道をやっとおりたと思ったら、断崖絶壁がどどんとたちはだかった。

「……なんと、これは。宗月」

と、妖怪が行者ぎょうじゃにふり返る。束ねた髪を乱した宗月は、深い谷とその下にしげる森、さらに先に盛りあがっている次の山を眺め、言葉をうしなった。


 藍澄が彼をつつく。

「お前が言うから道を変えたのだぞ。ここはどこなのだ、どこを目指すつもりだ天界か?」

「……ああ、俗世にくらべて空気が澄んでいるなあ。この機会によく吸っておこうではないか、藍澄」

「ため息しか吐けん! あっなぜ進もうとする、ここはきた道を帰らねば。おい宗月……!」

 肩を叩く手がどんどん強くなり、身体が揺すられる。しかし不思議なことに彼は、この状況も相手の必死さも、なんだか楽しく思えてくるのだった。



「まったく、八月(さかい)に音沙汰なしかぁ。嵐の前のなんとやらかね」

と、鼻を鳴らした菊火が青の間をのぞき込む。

 そこには藍が座っていたが、文机をはずれて畳に向かい「ふふふ」と微笑んでいる。

 ああ、まただよこいつは。と菊火は呆れた。

 細い指がつかんでいるのは、平べったくて丸い駒。表が白で裏が黒、お互いをはさんで陣取りする盤上遊戯だと虎太郎に聞いていた。


 が、この墨妖怪にとってそんなことはどうでもいいらしい。これを偶然見つけてからというもの、ふとした時に駒を並べて遊ぶようになっていた。ひとりきりで。

「黒。白。黒、もう一度かえして白…… ふふ……」

 幸せそうな横顔を見て、テン妖は無言で裏庭へ戻っていった。


 このあいだの騒ぎから新たな動きはなく、月若邸にはつかの間の休息が訪れている。

 ただし虎太郎にはゆるやかな変化があり、しょっちゅう昼寝をするようになった。しかも場所を選ばずに。

 ことの起こりはつい先日。

 表庭の縁側に丸まっている虎太郎を藍が見つけ、慌てて揺り起こした。

「虎や、陽に熱されるぞ。字だけでなく身体も猫になるつもりか」

 ぱちりと大きな目が開けば、

「それじゃあ滝を降りよう、藍澄」

と古い呼び名を自然に口にされ、彼が宗月としての夢を見ていたと知れたのだった。



 日常に細切れの昼寝がはさまり、いま虎太郎の生活はしま模様のようになっている。

「あまりさわりがあるなら、薬師を呼んじゃどうでしょう?」

 竹蔵は心配顔をしたが、本人はいたって平気そうだ。

「大丈夫、眠いだけだ。変なもの見るわけじゃないし」


 藍にとって、遠い過去を拒まれないのは唯一安心できるところだ。

 しかし、ふと顔をあわせた拍子に「あのとき魚を食われた」「今日は栗をとられた」とつぶやかれるのはきまりが悪かった。

「先日の騒動で眠り込んだ時、強い記憶に触れたのだろう。それが呼び水になって、魂が急ぎ目覚めつつあるようだ」

 本体は寝ているが、と丸まっている虎太郎を横目に藍が説明すると、正座した竹蔵はいっそうちぢこまった。

「本当に申し開きもできません。おいらのせいで旦那を危ない目にあわせちまって」


「気に病むな、竹蔵。お前は市井しせいの霊、脅威と渡りあう役ではない」

「そう、つまり役に立たねえんですぅ……」

 髷の頭がしゅるると下がり、困った藍は、

「あまり女々しくするとテン妖に尻を焼かれるぞ。なにか好きな言葉を書いてやろう、万葉仮名はどうだ」

となぐさめる。

 二人の会話に、むくりと起きあがった虎太郎が寝ぼけまなこをこすった。

「元気出せよ竹蔵、祭囃子まつりばやし吹こうか…… あっそうだ、藍」

 妖に顔を向けた青年は、古と今を同時に見つめながら尋ねた。


陸海空りくかいくう、どこにやったっけ?」



「この世にかぎりなく広がっているよ」

 書の仕度をしつつ藍が答えると、虎太郎は「ちがうってば」ともどかしげに座りなおした。

「そんな名前のついた物、誰かにもらったよな。大事な品だった気がするんだ」

 真剣な様子に妖も手をとめて考え込んだが、やがて困ったように首をふった。

「あいにく覚えがない。おそらく、宗月が私と出会う以前のできごとだろう」

「ううん、そうか……」

 どうにも引っかかるらしく、首をかしげる。そこへ竹蔵がひかえめな声をかけた。

「ひょっとしたら、お宝としておいえに伝わってやしませんかい? いえ、入れ知恵の誘い罠じゃないですよ」


 慌てる江戸町人を前にして、虎太郎の顔がパッと晴れた。

「ほら、やっぱ竹蔵がいないと!」

 透けた肩を叩こうとした手は空ぶりになったが、期待いっぱいで二階へ向かう。しばらく納戸をかき回していると、スマホをささげ持った藍が階段をあがってきた。

「虎や、須磨すまの穂が鳴いている」

「スマホな、ありがとう」

 あやふやな口調で「須磨穂……」とくり返す妖怪を背に、電話をとる。

 すると、

「もしもーし虎くん! ちょっと声聞きたくなっちゃって、なんてね」

と古楽器同好会会長・涌井の元気な声がはじけ、納戸の中が明るくなった。



「あっどうも、カラオケですか?」

 音楽の混ざるざわめきに耳を澄ませると、「僕もいるよ、まだ飲んでないよー」とのんびりした声と胡弓の音がした。涌井が苦笑まじりに答える。

「そう自主練、シロがヒマだってうるさくて。それでね、さっきいい知らせがあったから」

 夏祭りでの演奏を見た人から「うちの地区にも来てほしい」と誘いがあったのだという。

「来月の秋祭りだから、そういう感じの曲でって頼まれたの。虎くんも考えといてくれる?」

「わかりました、呼ばれるって嬉しいですね」


 後輩と通話を終えた涌井は、画面をじっと見つめたまま座っていた。

「どうしたワクさん、もっと喋りたかった? ここは僕で我慢してくださいよ」

 白城が弓をふるとようやく顔を向けたが、いつもの明るさが心配でかげっている。

「虎くん、大丈夫かな」

「あれ、元気だったんじゃないの。女の勘は鋭いね」

「勘もなにも。すっごく眠そうだったよ、あの子」


 “よばえうってうれしいでふね” と聞こえた最後の言葉を思い返し、彼女は首をひねった。

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