眠れる陸海空 1
険しい山道をやっとおりたと思ったら、断崖絶壁がどどんとたちはだかった。
「……なんと、これは。宗月」
と、妖怪が行者にふり返る。束ねた髪を乱した宗月は、深い谷とその下にしげる森、さらに先に盛りあがっている次の山を眺め、言葉をうしなった。
藍澄が彼をつつく。
「お前が言うから道を変えたのだぞ。ここはどこなのだ、どこを目指すつもりだ天界か?」
「……ああ、俗世にくらべて空気が澄んでいるなあ。この機会によく吸っておこうではないか、藍澄」
「ため息しか吐けん! あっなぜ進もうとする、ここはきた道を帰らねば。おい宗月……!」
肩を叩く手がどんどん強くなり、身体が揺すられる。しかし不思議なことに彼は、この状況も相手の必死さも、なんだか楽しく思えてくるのだった。
「まったく、八月境に音沙汰なしかぁ。嵐の前のなんとやらかね」
と、鼻を鳴らした菊火が青の間をのぞき込む。
そこには藍が座っていたが、文机をはずれて畳に向かい「ふふふ」と微笑んでいる。
ああ、まただよこいつは。と菊火は呆れた。
細い指がつかんでいるのは、平べったくて丸い駒。表が白で裏が黒、お互いをはさんで陣取りする盤上遊戯だと虎太郎に聞いていた。
が、この墨妖怪にとってそんなことはどうでもいいらしい。これを偶然見つけてからというもの、ふとした時に駒を並べて遊ぶようになっていた。ひとりきりで。
「黒。白。黒、もう一度かえして白…… ふふ……」
幸せそうな横顔を見て、テン妖は無言で裏庭へ戻っていった。
このあいだの騒ぎから新たな動きはなく、月若邸にはつかの間の休息が訪れている。
ただし虎太郎にはゆるやかな変化があり、しょっちゅう昼寝をするようになった。しかも場所を選ばずに。
ことの起こりはつい先日。
表庭の縁側に丸まっている虎太郎を藍が見つけ、慌てて揺り起こした。
「虎や、陽に熱されるぞ。字だけでなく身体も猫になるつもりか」
ぱちりと大きな目が開けば、
「それじゃあ滝を降りよう、藍澄」
と古い呼び名を自然に口にされ、彼が宗月としての夢を見ていたと知れたのだった。
日常に細切れの昼寝がはさまり、いま虎太郎の生活は縞模様のようになっている。
「あまり障りがあるなら、薬師を呼んじゃどうでしょう?」
竹蔵は心配顔をしたが、本人はいたって平気そうだ。
「大丈夫、眠いだけだ。変なもの見るわけじゃないし」
藍にとって、遠い過去を拒まれないのは唯一安心できるところだ。
しかし、ふと顔をあわせた拍子に「あのとき魚を食われた」「今日は栗をとられた」とつぶやかれるのはきまりが悪かった。
「先日の騒動で眠り込んだ時、強い記憶に触れたのだろう。それが呼び水になって、魂が急ぎ目覚めつつあるようだ」
本体は寝ているが、と丸まっている虎太郎を横目に藍が説明すると、正座した竹蔵はいっそうちぢこまった。
「本当に申し開きもできません。おいらのせいで旦那を危ない目にあわせちまって」
「気に病むな、竹蔵。お前は市井の霊、脅威と渡りあう役ではない」
「そう、つまり役に立たねえんですぅ……」
髷の頭がしゅるると下がり、困った藍は、
「あまり女々しくするとテン妖に尻を焼かれるぞ。なにか好きな言葉を書いてやろう、万葉仮名はどうだ」
となぐさめる。
二人の会話に、むくりと起きあがった虎太郎が寝ぼけまなこをこすった。
「元気出せよ竹蔵、祭囃子吹こうか…… あっそうだ、藍」
妖に顔を向けた青年は、古と今を同時に見つめながら尋ねた。
「陸海空、どこにやったっけ?」
「この世にかぎりなく広がっているよ」
書の仕度をしつつ藍が答えると、虎太郎は「ちがうってば」ともどかしげに座りなおした。
「そんな名前のついた物、誰かにもらったよな。大事な品だった気がするんだ」
真剣な様子に妖も手をとめて考え込んだが、やがて困ったように首をふった。
「あいにく覚えがない。おそらく、宗月が私と出会う以前のできごとだろう」
「ううん、そうか……」
どうにも引っかかるらしく、首をかしげる。そこへ竹蔵がひかえめな声をかけた。
「ひょっとしたら、お宝としてお家に伝わってやしませんかい? いえ、入れ知恵の誘い罠じゃないですよ」
慌てる江戸町人を前にして、虎太郎の顔がパッと晴れた。
「ほら、やっぱ竹蔵がいないと!」
透けた肩を叩こうとした手は空ぶりになったが、期待いっぱいで二階へ向かう。しばらく納戸をかき回していると、スマホをささげ持った藍が階段をあがってきた。
「虎や、須磨の穂が鳴いている」
「スマホな、ありがとう」
あやふやな口調で「須磨穂……」とくり返す妖怪を背に、電話をとる。
すると、
「もしもーし虎くん! ちょっと声聞きたくなっちゃって、なんてね」
と古楽器同好会会長・涌井の元気な声がはじけ、納戸の中が明るくなった。
「あっどうも、カラオケですか?」
音楽の混ざるざわめきに耳を澄ませると、「僕もいるよ、まだ飲んでないよー」とのんびりした声と胡弓の音がした。涌井が苦笑まじりに答える。
「そう自主練、シロがヒマだってうるさくて。それでね、さっきいい知らせがあったから」
夏祭りでの演奏を見た人から「うちの地区にも来てほしい」と誘いがあったのだという。
「来月の秋祭りだから、そういう感じの曲でって頼まれたの。虎くんも考えといてくれる?」
「わかりました、呼ばれるって嬉しいですね」
後輩と通話を終えた涌井は、画面をじっと見つめたまま座っていた。
「どうしたワクさん、もっと喋りたかった? ここは僕で我慢してくださいよ」
白城が弓をふるとようやく顔を向けたが、いつもの明るさが心配でかげっている。
「虎くん、大丈夫かな」
「あれ、元気だったんじゃないの。女の勘は鋭いね」
「勘もなにも。すっごく眠そうだったよ、あの子」
“よばえうってうれしいでふね” と聞こえた最後の言葉を思い返し、彼女は首をひねった。




