想花香 5
少女の霊と出会ったのは、旅を始めて二月ほどたったころだった。
春の山の片隅にしなやかな木が薄紅の花をつけている。懸命に枝を伸ばす細い木、それに寄りかかるようにして彼女は立っていた。
美しいが風変わりな、異国の衣装。その全身は陽が差し込むとおぼろに溶け、少女が人の世のものでないことを知らせていた。
「あなたは、旅の方……?」
不思議そうに首をかしげる彼女へ、宗月は微笑みを返した。とたんに相手が笑顔になり、「まあ、わたしが見えるのね!」と声を高くする。
「これまでの誰にも、声すら届きませんでした。それが姿まで伝わるだなんて」
軽やかなはしゃぎようは生者と変わらない。無邪気な様子に胸を打たれた宗月は、少女のそばへ歩み寄った。
「きれいな花だ。その木がお前自身だね?」
「はい、縛られてどこへも参れません。 ……あら、あなたは」
と、少女の黒い瞳が開かれる。
「あなたは、導いてくださる方。そうなのですね」
「一応、というところだ。身ひとつで修行しようと決心したのも、つい最近でな」
恥ずかしそうに頭をかく青年を、少女は小さな顔を近づけてまじまじと見つめた。
「でも、迷える心をお治めになったのでしょう?」
「仔鹿を一頭、子猿を二匹、仔だぬきを三匹」
宗月が正直に指を折ると、相手は「野の者ばかり!」と拍子抜けに眉をあげる。
「なに、いずれの魂も等しく尊い…… あれらは素直で助かった」
ばつの悪そうな新米道士を見て、少女は袖を口もとにあててかわいらしく笑った。その表情のまま、明るく告げた。
「では、わたしがあなたにとって初めての人形。どうか少しのあいだ、この寂しい木とたわむれにお話を」
少女は、かつてとても広い国に生きたこと、白い花の咲く園で暮らしていたことを切れぎれに語った。
「たくさんの人がおりました。楽士に歌者に、わたしは舞手として、高貴な方々のために芸を競って……」
「厳しい日々だったろう」
宗月が小さく応じると、彼女は「舞のほかには、なにも持ちませんでした」と寂しげに微笑んだ。
「けれどある方が、わたしを家に迎えると誓ってくださって。夢のようだった」
淡色の夢、と小さくつぶやく。表情の消えた横顔に狂気の影が走ったようだった。
「その方の誓いは二つあったのです。わたしのものは果たされなかった。すべて忘れてしまえたらいいのに」
己の内に向けて告げる彼女を、となりに座る宗月がそっとのぞき込んだ。
「旅の先は長い。国をまわって鍛錬をつめば、お前を苦しめる鎖を解くことができるはずだ」
潤んだ目が彼をとらえる。
「いつか必ず、お前を自由にする。その日まで穏やかであるように……」
かりそめの名を与えよう。
そう筆をかかげた青年の手に、少女がたおやかな指を添える。ふたりの視線が合った。
「遠い約束よりも……」
と、少女はささやく。
「今、ここにいてください」
切実な心を向けられて宗月の手がとまった。花びらが幾枚も降りかかる。その色は濃さを増して景色に浮きあがる、くっきりと赤く。
あたりの時間までもが流れを捨てかけたが、宗月はふいに顔をあげた。
「あれは?」
誰かの声が聞こえる。
とても離れたところから、誰かが呼びつづけている。
「……つき、か ……くん」
目をせばめた彼の頬を少女の手が引き戻した。黒々とした瞳の中に、それまでになかった情念が渦を巻いていた。
「宗月さま。耳を貸してはだめ」
「いいや、待て」
彼は彼女を抑えながら立ちあがる。筆を握る手に小さな重みを感じた。数珠だ、私はこんなものをつけていただろうか?
そこへひときわ強い声が届いた。
「……月若くん。虎太郎くん!」
ああ、と彼の唇が開かれる。
あれは俺の名前だ。
着信があった時、春瑠は午前中のアルバイトを終え、最寄り駅についたところだった。
“月若くん(お屋敷)” という表示を確かめ、何気なく通話を受ける。そのとたん、甲高い声が耳もとで爆発した。
「あーっ届いたァッ!」
「きゃーっ!」
彼女はあやうくスマホをほうり出しかけたが、切実な訴えがそれをとめた。
「ちょっと聞いてんの、沖野のハルだね? 月若の家を助けて。虎太郎が危ないんだってば!」
「月若くんが……?」
春瑠の表情がサッとかげる。
すぐに気を取りなおし「具合悪いの? 救急車、かわりに呼ぼうか」とはっきり告げる。この子はきっと近所の者で、藍之介もそばにいないのだろう。
しかし相手はイライラと声を張りあげた。
「そういうんじゃないよ。事情はその、込み入ってて…… ああもう、顔が見えないってまだるっこしい!」
女の子がキーッと動物のように鳴くと、春瑠は反射的にこう答えていた。
「わかった、すぐ行く。それまで月若くんをお願い」
通話を切るや駅へ駆け込んでいく。返事とうらはらに何ひとつわかっていなかったが、自分の想像を超えるものが虎太郎に迫っていることは感じていた。
目指す駅で電車を飛び下り、太陽の照りつける道を走る。すれちがう人々が驚いて彼女を見送った。
屋敷が見えてくると、固まりかけていた春瑠の頭がやっと動き出した。
それに応えるように、門の向こうにぴょこっと人影が現れる。細っこくて小柄なポニーテールの女の子だ。
「ハル!」
利発そうな顔から電話と同じ声が飛ぶ。春瑠は息を切らして「月若くんは?」と尋ねた。
「こっち、早く」
女の子は跳ねるように廊下を進み、居間も座敷も通りすぎて階段を上がっていく。後を追う春瑠に新たな不安が生まれる。どうして二階に? 以前訪ねた時、もう使っていないと聞いたのに……
洋間に立ち入った瞬間、幾筋も流れていた汗がスッと引いた。
虎太郎は、板張りの上に崩れるように横たわっていた。
目を閉じた顔には一切の表情がなく、春瑠の背筋を凍らせる。女の子の言ったとおりだ、これは “そういう問題” ではない。
かたわらで厳しい表情をしていた少女が、
「動かせないから。呼んであげて」
と張りつめた口調で告げる。
春瑠は背を押されたように膝をつき、虎太郎の手をとった。二人を包み込み守っているうす青い影に、必死になっている彼女は気がつかなかった。




