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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 一 】
3/50

月の屋敷に藍の澄むこと 3

 虎太郎の頭に浮かんだのは 怨霊 の二文字だった。

 なにせ頑健だった祖父があんなことになったばかりで、現場はまさにそこの裏庭。

 それに、目の前の相手がこちら側に属するものでないことは明らかだ。性別のはっきりしない顔立ちも、いつの間にか文机の上にゆるく組まれた両手も、姿形すべてが整いすぎている。


 身動きのできない虎太郎に、怨霊は優雅なため息をついてみせた。

「久方ぶりの客人はくちなしの花、私もよくよく運がない。うつし世の者であれば、どんなに些細でも名を持っているだろうに」

 やれやれ、と長い袖につつまれた腕を組むと、高貴に澄んだたたずまいが少し薄れた。妙に偉そうな物言いに恐怖が退き、虎太郎は反射的に声を返す。

「客人ってなんだよ、ここは俺の家……!」

 しかし、彼は言い終えるより早く目を見開いた。


 開けはなした雨戸の先から強烈な気配が背をなでた。

 なにかがきた。とても悪い、嫌なものが。

「ほう、勘は充分」

 彼の様子に気づき、怨霊が感心の声とともに立ち上がる。そのまま近づいてくるが、虎太郎はそれを避けるどころではなかった。全身に鳥肌が立ち、しかし縛られたように固まりきっている。

 怨霊が隣に立った時。

「……ぅあ、お」

と庭先から、赤ん坊とも老人ともつかない、奇妙にひしゃげた声がした。



「おぉ、お」

 とてもとても低い位置から。っているのかもしれない。

 震えるうめきが耳をつらぬき、虎太郎は心臓をつかまれたようにすくみ上がる。嫌な気配には何度も脅かされてきた。が、いま背後にいるこれは、その全部をまとめたよりもっと悪いものだ。

 額に一筋の汗が流れた。

 視界のはしに怨霊の着物と、そこに流れる黒髪が映っている。宵に夜の幕が引かれるころあい、世界は青の単色に落ちる。


「名を、もらっておこう」

 おさえた問いかけは器に張った水に似ていた。“虎太郎”と答えようとしたが、血の気の引いた唇からは、

「とら」

という欠片しか出てこない。

 霊は苦笑を返したが、庭先からずるりと不気味な音がすると、一転して凛々しい声を響かせた。

「書を治めよ、虎。あれを屋敷に上げてはならない!」

 そう告げた瞬間、怨霊は四方にほどけた。


「えっ……!?」

 こつぜんと姿を消した霊に、虎太郎は恐怖を忘れて顔を向けた。ぶわっと涼風が巻き起こって彼の身体をくるりと押す、庭の方へ。

「うわっ!」

 慌てて宙を泳いだ時、数珠のはまった手に一本の筆を握っていることに気がついた。穂先の長いしっかりした筆。祖父さんがよく使っていたやつに似てる……

 完全にふり向くまでのわずかな時間、彼はベッドに横たわる祖父を思い出した。とたんに頭の中に細い糸が張った。

 庭にいる何か。家を侵そうとする何か。

 祖父さんを引きずり倒したのは、あいつだ!


 彼は口を引き結び裏庭と対峙たいじした。ふすまと雨戸は開かれ、夜を待つ空に松が枝を伸ばしている。苔むした大きな石、低い笹のしげみ。

 その間から、黒くぬめった奇怪なかたまりが彼を見据えていた。

 カッと開かれた二つの眼は異様に大きかったが、人間と同じ形をしている。真似ているのだ、と虎太郎は直感し、それが冷たい恐怖を呼び戻した。


 隙は悟られた。ずぞぞ、と不快な湿度をまとって黒い肉塊が向かってくる。

「うっ!」

 腐った血を思わせる臭気が鼻をつき、虎太郎は一歩退きかけた。しかし涼やかな風が彼をとどめる。右腕がふわりと押しあげられた。

 ハッと見れば、あの薄墨の影が渦を描きながら虎太郎を取り巻いている。

 姿を変えた怨霊が「虎、なにをしている!」と厳しい声をあげた。

「名を、ふさわしき字を書き与えるのだ。それがじゅつになる!」


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