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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 五 】
29/50

想花香 4

 藍は、細く開けた雨戸から裏庭を眺めていた。

 一条の薄い光が畳を走り、膝に置いた手にかかる。今代の夜は驚くほど明るいが、考えごとにはちょうどいい。特に、闇のような記憶を引き出そうという時には。


 “死にぎわに未練が残ってるんでもなきゃ”……


という菊火の言葉が、藍の心を長い旅の終点へ戻していく。

 自分の領域にもぐる必要もなく、あの日の光景は今もありありと思い描けた。



「藍澄、右手へ……!」

 宗月の叫びが雷鳴にかき消される。

 大粒の雨が切れ間なくそそぎ、矢のように打つ。黒々とそびえたつ城門だけがそれをはね返していて、その朽ちかけた門自体が荒れ狂う怨霊なのだった。

「承知」

と答えた藍澄が影に溶けて駆ける。それを追って、門から長々とつづく城壁に数えきれないほどの顔が浮き出し、ゆがんだ口に歯をむき噛みついてきた。


 最後の場所、亡者の町。

 さげすまれ、忘れられた魂たちが形づくった幻の都城が、巨大な悪意のかたまりとなり二人に襲いかかっていた。

 稲光が空を割り、パリパリッと痺れるような音があがる。彼らは裏門の前に滑りこんで顔をあわせた。

「隙がない。一度退()こう、宗月」

 妖が門をにらみながらささやくが、道士は厳しい表情で首をふる。

「いま治めねば民が危険だ。西の門が開いていた、このものの心を解くには都に入らねば」

「罠だ」

 すかさず返すと、宗月は滝のような雨の中で「鬼の卓見だな」と少しだけ笑った。すぐに顔を引き締め、従者に鋭く告げる。

「後衛を頼む。私が字をつかむまで」

「……承知」


 ともに歩いた十年ちかい月日、大から小までたくさんの話をしてきたが、雨中でのこの会話が最後になった。

 あの後に彼が書いた字を、藍は知らない。

 墨影に身を変え、みずからの意識を一滴あまさず守護にそそぐうちに、感覚がはじけ飛んだ。散らばりかけた霧からようやく姿を現した時、宗月はすでに倒れていたのだった。

 呪われた荒地だったはずの一帯は草木のしげる平原に変わっていて、藍澄は宗月が都を救ったことを悟る。冷たくなった彼にふれた手に、糸のような小雨がふりかかっていた。


 今、時代の先端で藍はゆるやかに首をふる。

 心残りのあるはずがない。宗月は覚悟の上で相手を治めきったのだ。

 主の亡骸が目に浮かぶ。眠るようにまぶたを閉じたその頬には、赤い花のような傷が残されていた。




「旦那、旦那……」

 まだうす暗い早朝、虎太郎はひそやかに揺り起こされた。

 目を開けると江戸町人のかしこまった膝があり、彼は「竹蔵? どうした」ともごもご声を返す。

「それが、お二階から花の香がするんで。もしや親御さんじゃありませんかい」

 虎太郎は上掛けをひっくり返して飛び起きる。透けた顔をつきあわせた竹蔵は、こわばった顔で声をひそめた。

「遅くまで写真を見てらしたでしょう。すいやせん、おいらどうにも心配で……」


「いや、ありがとう」

 張りつめたささやきを返し、足音を立てないように階段を駆け上がる。自分が親の影を求める子供であることを、藍と菊火に見せたくはなかった。

 竹蔵の言ったとおり、あの香りは先へ行くほど濃くなっていき、昨夜の洋間へと彼を導いた。

 勢いよくドアを開ける。

 暗い床の上にぽつりとアルバムが開かれていた。

 きのう確かに棚へ戻したはずだ。心の一端が警告を叫ぶ。

 しかしもうとまらなかった。夢中で手を伸ばしアルバムを取りあげる。これは入学式だ、門の前から父と母が笑いかけ……


 手をふった。


 虎太郎は目を見開いた。

 まぶしそうにした父が片手を顔にかざす。母がなにか声をかけてしゃがみ込み、息子に向かって愛おしそうに両手を差し出した。二人の表情、仕草のすべてがこう叫んでいた。

 ほら、早くこっちにおいで!


「……お父さん。お母さん!」

 目に涙が盛りあがった。彼は両親のいる場所へ走り出す。時間の流れが重く遅い、もどかしさを押しきって大きく踏み出した一歩を地面につけた。

 その瞬間。

 赤い花びらがいっぱいに舞って視界をおおいつくした。




 邪魔しないでくれ。俺は進まないと。

 腕をふるってもがいていると、やがて嵐がおさまる。あたりは清涼なせせらぎの音に包まれていた。

「ここは……」

 いつか夢で見た河原だ。

 しかしあの時と違って霧は晴れ、かすみがかった空には雲がたなびき、土手を若草がいろどる。

 ひらひらと流れてくる花びら。一枚一枚がしっかりと筆をおいたように際だち、みずみずしく香って進むべき方角を知らせる。

 誘われるままに土手をあがっていくと、平野の先に誰かが立っているのが見えた。


 それはひとりの少女だった。

 ふわりとふり向いた彼女は、歩み寄る彼を見とめて軽やかに駆け出した。

 天女のような衣装を風にはためかせ、差し伸べた袖から華奢きゃしゃな手がのぞく。美しい黒髪にふちどられた顔はあどけなかったが、喜びに開かれた唇はつややかな薄紅色をしている。


 彼の口が自然と動いた。

 どうして知っているんだろう。そう思いながら名前を呼んだ。

梨那紅りなく……」


 春の光を受けながら、少女はひときわ明るい笑顔を咲かせた。

「宗月さま!」

 胸に飛び込んできた彼女を、彼は両腕を広げ受けとめた。求めつづけた甘やかな香りが、いま手の中にあった。

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