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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 五 】
27/50

想花香 2

「和尚おつかれー、また会うかもな」

 声をかけられた虎太郎は、慌ててふり返って手をあげた。

 立ち並ぶ倉庫のあいだに太陽が沈んでいき、まばらに歩く人の姿もかげり出している。その片隅で虎太郎は首をめぐらせた。

 無事に仕事を終えて外に出たところを、あの不思議な甘い香りに迎えられたのだった。


 きっと、なにかの花だ。

 同じものに出会ったことがあるだろうか? たとえば家族で出かけた先、近所の散歩道や公園、それともどこか旅先で。

 しばらく考えてみても、ぴったりくる思い出はない。残念な気持ちが湧いたが、やっぱり両親が見守ってくれてることにしよう、と打ち消す。そう決めてしまうと、「よくがんばったね」と二人にねぎらわれているようなあたたかさを覚えた。


 今は、忘れているだけかもしれない。帰ったらひさしぶりに古い写真を引っぱり出してみよう。

「きっと思い出せる」

 夕暮れにつぶやいて駅へと歩きはじめる。残された香りが返事のように濃くなったが、彼はそれを知らないまま家路についた。


 月若邸の門をくぐった時には、もう夜が降りてきていた。玄関の戸を引き、奥に向かって「ただいま」と告げる。

 しかし、小さな引っかかりを感じた。

 彼の留守に明かりを落とすのはいつものことだが、あまりに静かすぎる。妖たちの声どころか気配までもが消えて……

 冷たい予感がひと息に彼をつつんだ。

 電気をつけるのもほうって靴を脱ぎ捨てる。急いで踏みあがったその瞬間、暗い廊下が永遠のように伸びて彼を飲み込んだ。



「藍、菊火。竹蔵、誰かいないか!」

 走っても走っても廊下は尽きない。

 居間や座敷につながる入口はすべてなくなり、のっぺりとした壁だけがつづく。ずっと先もふり返ったうしろも、はるかな暗がりに溶けてしまっていた。

 冷や汗を流した虎太郎は、ハッとしてカバンを開いた。矢立で藍を呼べばいい! 夢中で中を探っていると、うつむいた鼻先をかすめてなにかが落ちてきた。


「うわっ!」

 飛びあがった彼の足もとに、

「しぃっ、静かに!」

と大きな白テンが尻尾を立てた。目を見開いた虎太郎が壁によりかかる。

「き、菊火、よかった……!」

「この無限回廊はあたしの仕込みさ、屋敷のまわりがちょっと騒がしくってね。それより虎太郎、あんた矢立をどうしたの?」

 橙色の眼がいぶかしげに細くなる。慌てた虎太郎は、「ちゃんと持ってる」と握りしめていた矢立を差し出した。


 そのとたん、

「こいつかぁっ!」

とテン妖が火花を散らして跳んだ。白い胴体が彼の手をはじき、矢立がくるくると宙を舞う。

「お、おいっ!?」

 とっさに追いかけようとした虎太郎を、菊火の鋭い声がしばりつけた。

藍澄あいずみ、ここに!」

 同時にたくさんの火の花が開く。束になった光にかあっと照らされ、暗い廊下が一瞬にして溶けた。



「菊火、藍! 何がどうなって……」

 尻もちをついた虎太郎が目を開けると、そこは間違いなく本物の廊下だった。

 菊火も藍もおらず、床に落ちたはずの矢立もない。屋敷の中はしんと静まり返り、戸を開けてからどれくらい経ったかもわからなかった。

 まるで世界に置き去りにされたようだ。板敷きのひやりとした感触が身体じゅうを伝わり、思わず身震いする。

 すると、玄関戸のガラスにすばやく影がよぎった。

 ……外だ!

 手をついて立ちあがった虎太郎は、夜の入口へまっすぐに飛び出した。




 月若邸の屋根を、異形の影が支配していた。

 毒々しくいろどられたひとつの身体。そこからたくさんの脚が湧き、それぞれに意志を持っているかのようにうごめく。巨大な蜘蛛くものようだが脚の数はずっと多く、形を真似たできそこないという感がある。

 その不完全さが異形自身をいらだたせているようだった。なかば崩れたむしの顔で牙がくわっと持ち上がり、地上から見上げる一匹の妖に狙いを定めた。


 そこへ白いテン妖が瓦を疾走してくる。

「叩き落とすよっ、下をまかせる!」

 甲高い声が響くとともに上空に火が咲き、脚をちぢめた異形の退路には火柱が立つ。たまらず壁を伝いおりた大蟲を迎えうつのは、本来の姿に戻った藍だった。



 墨染めの装束から白い手が伸びる。あたり一帯に冷たい風が巻きあがり、異形は屋敷の壁に張りついた。

あるじのもとへ帰るがいい。ゆかりなき地に身を沈めたいか!」

 三つの角の下から水色の瞳が敵を射る。

 異国の呪術をまぢかにするのは、この鬼にとっても初めてのことだった。しかし不思議なことに、長い髪を風に流しながら、藍ははるか昔に通りすぎた日をくり返しているような気がした。

 呪いの大蜘蛛は、涼気に身を削られながらも飛びかかってきた。鋭い爪の手を印の形に組んだ藍は、この既視感が相手の巨大さのせいだと気づいた。


 月若邸の庭が、藤の枝ざわめく夜の山と重なる。

 あの時に治めたのは、古木のような角を持つ大鹿だった。

 まつられることが絶えた神の使いが孤独にむしばまれ、里の者に害を与えるまでになりさがったのだ。

神鹿しんろくさえ堕ちる世とは……」

 そう嘆きをもらした自分に、宗月は何と答えたのだったか。



 屋根から顔を出した菊火が、墨の影でがんじがらめになった異形に向かって歯をむいた。

「よし、後はあたしが!」

「承知」

と、藍が最後に鋭い風を送って身を引いたその時。視界のはしでなにかが動く。


 戸が開いた、と思った瞬間、水色の瞳が吸い寄せられる。

 そこに現れた者は行者ぎょうじゃのなりをしていた。蓬髪ほうはつを束ね、ふところには筆をおさめ、穏やかで強い視線を投げかけ……

 大きく欠けた月の光を受けて、書術の道士が確かに立っていた。



「宗月」


 鬼の口から名がこぼれる。遠い日の約束がとっくに果たされていたことを、藍澄は知った。

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