想花香 2
「和尚おつかれー、また会うかもな」
声をかけられた虎太郎は、慌ててふり返って手をあげた。
立ち並ぶ倉庫のあいだに太陽が沈んでいき、まばらに歩く人の姿もかげり出している。その片隅で虎太郎は首をめぐらせた。
無事に仕事を終えて外に出たところを、あの不思議な甘い香りに迎えられたのだった。
きっと、なにかの花だ。
同じものに出会ったことがあるだろうか? たとえば家族で出かけた先、近所の散歩道や公園、それともどこか旅先で。
しばらく考えてみても、ぴったりくる思い出はない。残念な気持ちが湧いたが、やっぱり両親が見守ってくれてることにしよう、と打ち消す。そう決めてしまうと、「よくがんばったね」と二人にねぎらわれているようなあたたかさを覚えた。
今は、忘れているだけかもしれない。帰ったらひさしぶりに古い写真を引っぱり出してみよう。
「きっと思い出せる」
夕暮れにつぶやいて駅へと歩きはじめる。残された香りが返事のように濃くなったが、彼はそれを知らないまま家路についた。
月若邸の門をくぐった時には、もう夜が降りてきていた。玄関の戸を引き、奥に向かって「ただいま」と告げる。
しかし、小さな引っかかりを感じた。
彼の留守に明かりを落とすのはいつものことだが、あまりに静かすぎる。妖たちの声どころか気配までもが消えて……
冷たい予感がひと息に彼をつつんだ。
電気をつけるのもほうって靴を脱ぎ捨てる。急いで踏みあがったその瞬間、暗い廊下が永遠のように伸びて彼を飲み込んだ。
「藍、菊火。竹蔵、誰かいないか!」
走っても走っても廊下は尽きない。
居間や座敷につながる入口はすべてなくなり、のっぺりとした壁だけがつづく。ずっと先もふり返ったうしろも、はるかな暗がりに溶けてしまっていた。
冷や汗を流した虎太郎は、ハッとしてカバンを開いた。矢立で藍を呼べばいい! 夢中で中を探っていると、うつむいた鼻先をかすめてなにかが落ちてきた。
「うわっ!」
飛びあがった彼の足もとに、
「しぃっ、静かに!」
と大きな白テンが尻尾を立てた。目を見開いた虎太郎が壁によりかかる。
「き、菊火、よかった……!」
「この無限回廊はあたしの仕込みさ、屋敷のまわりがちょっと騒がしくってね。それより虎太郎、あんた矢立をどうしたの?」
橙色の眼がいぶかしげに細くなる。慌てた虎太郎は、「ちゃんと持ってる」と握りしめていた矢立を差し出した。
そのとたん、
「こいつかぁっ!」
とテン妖が火花を散らして跳んだ。白い胴体が彼の手をはじき、矢立がくるくると宙を舞う。
「お、おいっ!?」
とっさに追いかけようとした虎太郎を、菊火の鋭い声がしばりつけた。
「藍澄、ここに!」
同時にたくさんの火の花が開く。束になった光にかあっと照らされ、暗い廊下が一瞬にして溶けた。
「菊火、藍! 何がどうなって……」
尻もちをついた虎太郎が目を開けると、そこは間違いなく本物の廊下だった。
菊火も藍もおらず、床に落ちたはずの矢立もない。屋敷の中はしんと静まり返り、戸を開けてからどれくらい経ったかもわからなかった。
まるで世界に置き去りにされたようだ。板敷きのひやりとした感触が身体じゅうを伝わり、思わず身震いする。
すると、玄関戸のガラスにすばやく影がよぎった。
……外だ!
手をついて立ちあがった虎太郎は、夜の入口へまっすぐに飛び出した。
月若邸の屋根を、異形の影が支配していた。
毒々しくいろどられたひとつの身体。そこからたくさんの脚が湧き、それぞれに意志を持っているかのようにうごめく。巨大な蜘蛛のようだが脚の数はずっと多く、形を真似たできそこないという感がある。
その不完全さが異形自身をいらだたせているようだった。なかば崩れた蟲の顔で牙がくわっと持ち上がり、地上から見上げる一匹の妖に狙いを定めた。
そこへ白いテン妖が瓦を疾走してくる。
「叩き落とすよっ、下をまかせる!」
甲高い声が響くとともに上空に火が咲き、脚をちぢめた異形の退路には火柱が立つ。たまらず壁を伝いおりた大蟲を迎えうつのは、本来の姿に戻った藍だった。
墨染めの装束から白い手が伸びる。あたり一帯に冷たい風が巻きあがり、異形は屋敷の壁に張りついた。
「主のもとへ帰るがいい。ゆかりなき地に身を沈めたいか!」
三つの角の下から水色の瞳が敵を射る。
異国の呪術をまぢかにするのは、この鬼にとっても初めてのことだった。しかし不思議なことに、長い髪を風に流しながら、藍ははるか昔に通りすぎた日をくり返しているような気がした。
呪いの大蜘蛛は、涼気に身を削られながらも飛びかかってきた。鋭い爪の手を印の形に組んだ藍は、この既視感が相手の巨大さのせいだと気づいた。
月若邸の庭が、藤の枝ざわめく夜の山と重なる。
あの時に治めたのは、古木のような角を持つ大鹿だった。
祀られることが絶えた神の使いが孤独にむしばまれ、里の者に害を与えるまでになりさがったのだ。
「神鹿さえ堕ちる世とは……」
そう嘆きをもらした自分に、宗月は何と答えたのだったか。
屋根から顔を出した菊火が、墨の影でがんじがらめになった異形に向かって歯をむいた。
「よし、後はあたしが!」
「承知」
と、藍が最後に鋭い風を送って身を引いたその時。視界のはしでなにかが動く。
戸が開いた、と思った瞬間、水色の瞳が吸い寄せられる。
そこに現れた者は行者のなりをしていた。蓬髪を束ね、ふところには筆をおさめ、穏やかで強い視線を投げかけ……
大きく欠けた月の光を受けて、書術の道士が確かに立っていた。
「宗月」
鬼の口から名がこぼれる。遠い日の約束がとっくに果たされていたことを、藍澄は知った。




