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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 五 】
26/50

想花香 1

 八月も終わりにさしかかっている。縁側を照らす陽ざしはまだまだ強いが、季節が暮れる別れの色を帯びはじめていた。

「明日、バイト行ってくる」

 虎太郎が声をかけると、藍は謎の呪文でも聞いたような顔で見返してきた。


「奉公ですよ、兄貴。おいらも大きなおたなで世話になった気がしやす」

と、人のよい注釈を入れるのは江戸霊の竹蔵だ。彼は名前をもらってから少しずつ記憶を取り戻していて、行き先を見つけるのもそう遠くないと思われた。

 虎太郎が笑顔で腰をおろす。

「出かせぎっていう方が近いな、三日間の短発だから。倉庫の整理で肉体労働」

「ありゃ、そいつは暑そうですねえ。塩の握り飯を持ってっちゃどうです?」

「具は梅干だよな」

 盛り上がる二人に取り残されかけた藍は、会話の切れ目につぶやきを差しこんだ。


「虎や。危なくはないか」


 思案顔で思い浮かべるのは、虎太郎につきまとう不穏な影だった。翼のある獣と対峙たいじしたという菊火は、

「守ってやれんなら、やたらと怯えさせることもない。本人に知らせるかどうかはあんたが決めな」

と言い渡してから青の間に姿を見せなくなっている。去り際に「まかせる」と言ったのは虎太郎の守護そのものかもしれなかった。

 妖の心配に気づかず、虎太郎は得意げに右手をつき出した。

「そのへんは大丈夫。数珠つけたままでいいところだから!」



 もう大学生だし、自分で稼ぎたい。

 そう思いたった彼は、深く考えずに数駅先のスーパーマーケットの求人に応募した。中年の店長は愛想がよく、面接は呆気ないほど順調に進み、

「未経験なのは気にしないでいいよ。ちゃんと研修があるからね」

とまで話したので、虎太郎はすっかりそこで働く気になっていた。


 しかし席をたって最後に頭を下げた時、店長が彼の手に目をとめた。

「あっそうだ、勤務中は腕時計だけだよ。うちの系列、そういうところはうるさいから」

「…………」

 虎太郎は笑顔で固まる。そこに数珠があることはあまりにも自然で、存在を忘れていたのだ。



 結局、彼は同期の三橋に連絡した。メッセージの返事は、送った数秒後に電話でやってきた。

「よう月若、甲子園見てるか熱戦やばいぞ! えーっと服装自由っていうか数珠自由のバイトな、短期でよければ紹介できるけど?」

「さすが敏腕ブローカー……!」

「ふっふ、人材斡旋(あっせん)と野球観戦が俺の喜びさ。あー打った逆転ちょっと待って!」


 話がまとまった後、三橋はこんなことを言った

「いやー、まさか月若が頼ってくれるとは。わりと自分でなんとかしちゃうタイプだろ、お助け野郎の出る幕がないっていうか」

 閉じてるってことか、と虎太郎は気まずく思いながら首すじをかく。

「そんなことないって。助かったよ、本当」

 初バイトがんばれよー、という応援で通話は終わった。


「紹介してもらったし、しっかりやらないと。祖父さんも人と働くのはいいことだって言ってた」

と、虎太郎は準備体操のつもりでぐいっと腕を伸ばす。

 祖父は治療を根気よく続けていた。あいかわらず言動に愛嬌はないが、彼なりに気をつかっているというのが虎太郎もわかるようになってきていた。

「アルバイトか。お前も外に出ていく年ごろだな」

 そうつぶやいた祖父は嬉しさを押し隠していたようで、思い返すと照れくさい。

「祖父さん、リハビリで動くようになったから食事が物足りないって言うんだよな。バイト代でうまいもの買ってやろう」

 彼のやる気を察した藍は、「矢立を忘れるな」と短く忠告するにとどめた。




和尚おしょう、その細いやつ何?」

 ペットボトルの中身を飲み干したバイト仲間が、ポケットにのぞく矢立を見て不思議そうに声をあげた。

「ああ、筆入れ。お守りみたいな感じ」

 虎太郎は汗をぬぐって何気なく説明する。いざという時にそなえ、カバンに入れず身につけることにしていた。

 筆と聞いた相手は、強烈にブリーチした髪をかきあげて「すげーまじで和尚!」と大笑いした。ロッカーを開けた一人が顔を向ける。

「せっかくだから拝んどけよ、お前とか鉛筆もろくに持たないだろ」

「はぁ? 名前くらい書くし、月イチで……」


 会話が移っていき、虎太郎は安堵の息をつく。

 すでに二日目をむかえた仕事はとても順調だった。大きな失敗もせず周りに溶け込めており、なにより怪異が起きていない。

 数珠からついたあだ名のせいで「寺の息子なんだって? どこのお寺?」と聞かれつづけるのには少し困ったが、首尾は上々だ。

 あと一日、これなら大丈夫だ。

 時間をたしかめ、ロッカールームを出た時。ふいに後ろから肩を叩かれ、彼は驚いてふり返った。


 そこには、コンクリートの壁を背にして長身の若者が立っていた。

 同じような作業着姿だが、これまで顔を合わせた覚えはない。長めの前髪の奥から黒い目がじっと見つめてくる。なめらかに浅黒い肌がどこか暑い国を思わせた。

「ええっと、どうしました?」

 虎太郎がぎこちなく尋ねると、相手はためらいがちに矢立を指した。

「それ、すこし……」

と、片言の日本語とともに自分の目を指す。


 見たい、ということか。

 虎太郎は迷ったが、違う国の文化に興味があるのだろうと思うと断りきれなかった。「じゃあ、少しだけ」と念を押して矢立を差し出す。青年は、金属にほどこされた紋様を指でなぞった。

 熱心な様子に気をゆるめた虎太郎が、

「これはヤタテ、で、筆はここに入ってる」

とふたの部分を開けてやる。相手は耳慣れない言葉で驚きをあらわし、微笑みとともに矢立を返した。

 その一瞬、彼の目に不思議な色が浮かんだが、集合の合図に気をとられた虎太郎は気づくことができなかった。

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