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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 四 】
24/50

青竹に光陰の追い書き 5

 竹蔵たけぞうという新しい名前を、江戸町人は手ばなしで喜んだ。


 一方、昼すぎまで眠っていたせいで名づけの瞬間を見逃した菊火は、

「あんたほんとにそれでいいの? もっと格好いいのなかった?」

と信じられないように二人を見くらべた。

 虎太郎が口をとがらせる。

「ちゃんと顔見て思いついたんだから、合わないってことないだろ」

「そうですよ菊姐さん、青の間に竹、竹林に虎を墨で描き。こいつぁ粋ってもんですぜ」

「菊の花はどこよ」

 ふくれっ面になったテン妖を置いて、虎太郎は竹蔵に向きなおった。


「それにしても、昨日は助かった。竹蔵の言ったことが鍵になったんだ」

「いえいえそんな。こっちは長くぶらぶらしてたもんで、宙ぶらりんの気持ちはよくわかりやすから」

 へへっ、とさっぱりした笑顔を向けられて虎太郎は罪悪感を感じる。彼の名前をほうって春瑠の誘いに飛びついてしまったのだから。

 その結果が、あの怪異だ。

「その娘っこってどんな子? もいっぺん呼んで会わせてよ、あたしは妹ってことにしていいからさ」

と伸びあがったテン妖に、彼は「もうこないと思う」とつぶやいた。

「へ?」

「あんなことがあったから。今までも、似たようなくり返しだった」



 虎太郎から表情が消える。

 月の屋敷はお化け屋敷、月若と遊ぶと呪われる。

 小学校では気味悪がられ、中学校にあがれば「お前、霊感あるんだって?」「なんだよその数珠」とからかいの種に。屋敷を離れた高校生活、彼はひたすら悪目立ちしないよう息をひそめてすごしたが、そのとがった雰囲気は人を遠ざけた。


 青の間を開けて、なにかが変わりはじめたと思っていた。

 けれど不相応な夢を見すぎたのかもしれない。深いつながりを持てる生身の人間なんて、この俺には妖や霊よりも遠い存在なんだ。


 黙り込んだ彼を、菊火のふさふさの尾が叩いた。

「やだよねぇすぐ沈んじゃって、あたしらがついてるじゃない。いてる憑いてる」

「菊姐さん、そいつがいけねえんじゃないかって話ですぜ……」

 竹蔵が気弱に反論すると、虎太郎が少し笑みを戻した。

「いいよ、慣れてるから。このままいけば俺も妖怪になれるかもな」

「あー、ついにはヘソ曲げちゃって。ひねくれ坊主の虎太郎!」

 呆れた声を残し、テンが縁側へ駆けていく。

「虎の旦那、おいらにできることがあれば何なりと。それまで静かにしておきやすから」

 半分透けた江戸町人は、内緒話のようにささやいてからすうっといなくなった。



 畳にひっくり返って天井を眺めていた虎太郎は、ふと思いあたった。

 感情を押し殺していた数年間。あのころは、こんなふうにたくさん名前を呼ばれなかった。藍が言っていたように、名と一緒に自分自身を見失いかけていたのかもしれない。

 少なくとも今は違う。

 妖や霊たちに呼ばれ、助けを求められ、できることをする。

「……そうやって俺が俺になる、ってことか」

 そして、できないことがあるように、なれないものだってあるだろう。たとえば普通の人間とか?

 納得したようなしたくないような気分で、右手を顔の前にかざした時だった。

 夕暮れの光に満ちる屋敷の中を、はっきりした呼び鈴の音が通り抜けた。「はーい、出ます!」とあわただしく玄関を開けた、その先に。


 春瑠が立っていた。



 虎太郎は呆然として歩み寄る。

「あ、あの。ちょっと近くで用事が……」

 彼女は額に汗を浮かべて喋り出したが、言葉を失った虎太郎が門を開けると、「用事は、ここです」と言いなおした。柔和な面立ちが引き締まっているが、どんな感情のせいかはわからない。

 だが虎太郎は、このあとなにを言われてもかまわないと思った。

 せっかくの誘いをぶち壊し、怖い思いをさせたのに、春瑠は見てみぬふりをしなかった。これまで離れていった人々とは違い、彼の存在から逃げなかった。

 それだけでよかった。


「月若くん?」

 セミの合唱に混ざって春瑠の声がする。心臓が小さく跳ねた。

「うん」

「昨日は、ありがとう」



 庭木が揺れ、二人のあいだに夕陽を落とす。春瑠がまばたきをすると、薄い瞳にオレンジの光が映った。

「私、ひどい態度だった。助けてもらったのにお礼もしないで帰っちゃって。ごめんね」

「いや、そんな…… それでうちまできてくれたのか、遠いのに?」

 虎太郎がにわかに焦り出し、つられた春瑠も「いいの、来たかったの! 写真も渡せなかったから、この前おじゃました時と、お祭りの」と慌ててカバンをかき回す。

 虎太郎は驚きと安心に流されかけたが、これで済ませることはできない。差し出された封筒を受けとり、打ち明けようとした。

「沖野さん。昨日のあれは……」

 あれは、俺のせいで。


 しかし彼より早く、春瑠がきっぱり言いきった。

「あれはね、気のせいだよ!!」

 彼女の世界には怪異なんてなかった、なにも。ものすごく真剣な彼女を前に、虎太郎は小さな声で「そうだね」と答えた。



 送り火の始末を終えると、夏の色が一枚あせたような気がした。

 すっかり暗くなった空に星がまたたく。縁側に座っていた虎太郎が戻ってきて、文机の横に腰を下ろした。

 思いがけず騒がしくなった盆を越え、彼はひとつ思うことがあった。

「うちのご先祖、屋敷のどこに帰ってきてんだろう?」

「われわれの知る世とは違う場所が、ここに重なっているのかもしれぬ。人も妖も感じとれない領域が」

 藍がそう応じると、虎太郎がぽつりと返す。

「結局、会いたい人には会えないんだな」

「彼岸も此岸もままならぬものだ」

 同意された虎太郎は、ふいに笑みを向けてきた。明るい笑顔の奥底に、諦めと寂しさがにじんでいる。藍はその表情を見て急に不安を覚えた。


 この青年には、宗月道士に似たところがある。

 言動も外見そとみもまったく違うが、それがかえって二人の近い部分を鮮やかにしているようだ。そして宗月の魂は千余年を経て行方が知れないまま……


「おっ、なんだ」

 ぬっと小筆を差し出され、虎太郎は警戒心丸出しで身を引いた。

「いいから書いてごらん。前の行を写して」

 妖が真面目な顔をしてせかすと、観念して文机につき、穂先を墨にひたす。藍は、彼がじっくり時間をかけてつづる文字を息をつめて見守った。手の動き、筆の流れ、墨の跡。

 魂の面影が、ひとひらでも書に映ったなら?

 やがて虎太郎が筆を置く。

 藍は、カチカチに緊張しきった彼へ、それから自身にも向けてゆっくりうなずいた。


 まったく気のせいだった。


「うん、いきいきしている。いきいきとした猫だ。ここの丸みがもっとも猫らしくてよいね」

「本当かよ、ひどい出来だって自分でもわかるぞ」

「叱ってばかりも能がない。ほめて伸ばす方針に変えたのだ」

「猫の胴が伸びるだけじゃないか……?」

 虎太郎はやるせない様子で作品を眺める。藍はその肩をぽんと叩いた。

「そう卑下するな。今代の人間はこういう字を気に入るだろう、沖野の春瑠などは特に」


 ふいをつかれた虎太郎が「え、なっ」と口を開ける。

「なかなかいいを撮る娘ではないか。笛吹き虎太郎をいっぱしの楽士に見せるなど、心がこもらねばできぬこと……」

 ふふふ、と声に出して笑ってやると、真っ赤になった虎太郎が右手をふりあげて数珠を鳴らした。

「じょ、叙霊だ。じょす!」

「では私はあやかす」

 たがいに両手をかまえて向かいあったその床下で、

「なによ、うるさいじゃないのさ! ほんっと男って何百年たってもおんなじなんだから」

とテン妖の文句がはじけた。


「菊火ってそんなに生きてるのか? てっきり数十年くらいかと……」

 つい困惑した虎太郎に、藍がうなずいた。

「若づくりと言いたいのはわかるが、あれはあれで正しい姿。性根が子供なのだ」

「聞こえてるよ墨鬼! こら足踏みするな、あんたさっさと筆かえせっ」

 お盆が終わっても騒がしいのは続くようだ。今ひとりきりでないことを、虎太郎は素直に嬉しく思った。

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