青竹に光陰の追い書き 2
「月若くん!」
春瑠が手をふるのが見え、虎太郎も手をあげて答えた。
複数の路線が乗り入れる駅はどこまでも広く、縦横無尽に人が流れつづける。改札前のスペースは待ち合わせにぴったりで、あちこちで「ひさしぶり!」「あ、きた」と合流の声が上がっていた。虎太郎は、自分がそのうちの一人であることにくすぐったさを感じた。
「沖野さん。待たせた?」
「ううん、昨日は急に連絡してごめんね。お家、大丈夫?」
春瑠の明るい瞳が見上げてくる。長い栗色の髪を編み込みまとめていて、首から肩にかけての線がすっきりと浮き上がっていた。
「うち、人集まらないから。祖父さんはリハビリ中だし、法要はお彼岸と一緒にしようって」
気軽に答えた彼は、ちょっといたずらっぽくはにかんだ。
「祖父さん、治っても退院したがらないかもしれない。病室で筆ペン使ってたらモテ始めちゃってさ、お婆ちゃんたちに」
歓談室で即席の生徒にかこまれる祖父を思い出す。いつもいかめしい顔に困惑の影がさしていたが、内心照れていたのだろう。それを聞いて春瑠は楽しそうに笑った。
「さすが書家先生! 月若くんもお祖父さんに教わってるの?」
「小さい時に少し。でも下手すぎてやめて、もう藍に全部まかせてる」
ということにしてやった。
「藍之介さんの分もあればよかったかな、チケット」
春瑠が少し残念そうに言うので、虎太郎は「いいんだよ、あいつ筆から離れられない出不精だから!」とさわやかに笑顔を返した。
彼女の突然の連絡には、博物館の企画展というなじみのない単語がおどっていた。
アルバイト先でもらったチケットが二枚あるのだといい、最後にヒマワリのスタンプが添えられていた。
“古い時代の書も少し展示されるんだって。
期限が近くてもうしわけないんだけど、よかったら渡しにいきたいと思います”
虎太郎は、短い文章にスイカをくっつけて返した。
“せっかくだから、一緒に行こう”
送信する時の指は少し震えて、ついでに数珠までカチリと鳴った。
博物館は私設の小規模なもので、それほどにぎわっていなかった。間をあけて進む人々はゆるやかな雰囲気の中で会話を交わしている。
「わあ、漆塗りのお碗。月若くんのお家にぴったり」
「本当だ、ここの一列うちっぽい……」
「お食事で使うの?」
ふり向いた春瑠とまぢかに目が合い、虎太郎はやたらとまばたきした。
「いや、食器棚に置きっぱなし。人が少ないのに物ばっかりあってさ」
漆器のあるお屋敷! と春瑠がうっとりしてつぶやく。虎太郎は、古い工芸品や出土品よりも、それを見た彼女の反応に気をとられっぱなしだった。
「あっ、書だよ月若くん。竹簡、呪札……?」
解説のパネルを読んだ彼女は、「ノロイじゃなくってお祈りの方だって。ちょっとビクッてしちゃった」と照れながらカメラをかまえた。
笑顔を浮かべかけた虎太郎だが、ガラスケースの向こうに何気なく目をやったとたん釘づけになった。
間隔をあけて並べられた、古代の竹の札。
それぞれに複雑な文字が記されているが、一枚だけ真っ黒に塗りつぶされている……?
怪訝に思って顔を近づけた瞬間、虎太郎の背中に寒気が走った。
沖野さん、当たりだ。
その竹簡は墨塗りではなかった。にじみ出る強烈な念が空気をどす黒く変え、書かれているはずの文字をおおい隠しているのだった。
彼はとっさにボディバッグに触れる。内ポケットに入れた細長い形をそっとなぞると、落ちつきが戻ってきた。矢立の中には一本の筆が収まっている。
家を出る時、
「外にゆくならこれを」
と、藍が渡してきたのだ。この前の河原の騒動のように、もしもの事態には駆けつけるつもりらしい。
「この時代、矢立をふところに忍ばせてる大学生ってどうなんだ……」
「立派な風流人ではないか、どうせなら笛も持てばいい。それではごゆるりと」
意味深な笑みで送られてからはすっかり忘れていたが、本当に頼ることになるかもしれない。
彼が冷や汗を流すとなりで、春瑠がシャッターを切った。
江戸町人は、朝のあいさつに現れたきり仏壇の前にとどまっているようだった。やかましい菊火も姿を見せず、藍はひとり座敷で机に向かっていた。
昨晩に虎太郎と交わした会話を思い返す。
「今さらだけど、不思議だな。字を書くだけでどうにかなるなんて」
「だけ、とはごあいさつだな。文字と意味はこの世を成す大切なもの、どちらかでも欠けたらどうするというのだ?」
妖に苦笑され、虎太郎は「軽く思ってるわけじゃない」とばつが悪そうに眉をゆがめた。藍があらたまった様子で彼に告げる。
「名が欠けるのは、特に危うい。長いあいだ呼ばれなければ、誰しも己を忘れてしまう」
「一番はじめの、あいつのことだな」
虎太郎の表情が沈む。青の間を開けた日にやってきた哀れなもの。あの時の自分は怯えて戸惑い、しりぞけるしかできなかった。
「お前は精一杯に手を尽くした。最善だったよ」
穏やかに告げた妖の耳に、遠い世の声がよみがえった。
“最上の術では何ものも救えん。われらは最善を求めよう、藍澄”
「しかし宗月……」
と、不満げに返すのはみずからの声だ。
「術は強いに越したことはないぞ。この前だって取り殺されかけたではないか」
「ああ、あのお公家さんは危なかった! さしもの私も覚悟したよ」
行者姿の青年がふり返って笑う。あたりはとんぼの飛び交う秋の枯野で、ゆるやかな丘とそこから続く山々がぐるりと取り囲んでいた。
追いついた藍澄が、呆れと恐れとを半々にして訴える。
「頼むから命をほうり出さないでくれ。お前がいなくなれば野良妖怪に逆戻りだ」
「なに、その時は霊になって会えばよい。ここに約束しておこう」
宗月道士は、悠久に近い時を生きる妖からしても驚くほど気の長い男だった。
豪胆なのか捨て鉢なのか、つきしたがいながらよく悩んだものだが、今になって思うと彼は境界線で綱わたりをしていたのかもしれない。
正面きって尋ねておけばよかった、術を使う人間の心のあり方を。
筆をとめた藍は、天井から庭先へぐるりと視線をめぐらせた。魂の帰る時期にしては静かすぎるようだ。
「顔のひとつも出せばよいものを」
つぶやきを落とすと、妖の視線はふたたび手もとへ戻る。
しばらく書きものをつづけていたが、今度は筆を置いてしまい、中空を見上げてからまぶたを閉じる。すっと息を吸うと同時に、畳の上で影に解けて姿を消した。




