月の屋敷に藍の澄むこと 2
虎太郎は、沈んだ廊下に面したふすまを棒立ちになって見つめた。
その先に隔てられているのは、屋敷が建てられたその時から決して開いたことがない…… と伝えられるいわくつきの座敷だ。
小さいころ、彼は自分の手で確かめたことがあった。年始のあいさつで訪れた時に、大人たちの目を盗みふすまを引いてみたのだ。居間に駆け戻り、
「パパ、ほんとに開かなかった!」
とささやくと、祝い酒に顔を赤くした父は「みんな一度はやってみるんだなあ」と目を丸くした。広い肩いっぱいに手を回し、虎太郎は幼い声を硬くした。
「あれ、怖い?」
「パパはそう思わない。近所の子はお化け屋敷なんて言うみたいだけどね、そうですよね父さん?」
軽く尋ねられた祖父は苦い顔をし、それを見た父も、母も笑っていた……
虎太郎は頭をふって思い出を追い払う。楽しい記憶の後には別のものがやってくる。それを避けるようにここを離れたのだ。まともに足を踏み入れるのは数年ぶりだが、懐かしがるなんてことはない。
じゃあ、どうしてこんなに気になるんだ、あの開かずの間が。
虎太郎は大きな目をまたたかせる。
ほうっておけよ、と頭の隅で声がした。同時に「本当に開かないのか、今でも」と心がつぶやく。時刻を知らない蝉が遠くで鳴いている。少しの蒸し暑さを感じる中、手首の冷たい数珠が揺れたような気がした。
やっぱり呼んでいる。
……何が俺を呼ぶんだろう?
音のしないように一歩を進む。進んでいく。廊下はそう長くない、すぐにふすまの前に立つ。
そっと持ち上げた手をかけた。ぴたりとやんだ蝉の声は警告かもしれなかったが、虎太郎には届かなかった。強い使命感が指に力を加える。
内から押さえているような引っかかりを覚えた。彼は息を整え、両手を一気に左右へ押しはなった。
夏を追い払うようなひやりとした空気が虎太郎を包んだ。
「……開い、た」
思わず口に出し、息をひそめて暗い座敷をのぞく。
そこには誰もいなかった。
安心と物足りなさが心をかすめる。廊下からの弱い光を頼りに見たところ、部屋は八畳ほど、大した調度品もないので余計にがらんとして感じた。
いっぱいにふすまを開き、畳から天井まで見回しつつ奥へ向かう。
書院造というのか、一方に床の間と板棚が備えられている。小さな文机が据えられているのは、月若の家が書を修めてきたからだろう、と虎太郎は納得した。
結局、ただの座敷だった。呼ぶものなんていやしない、日暮れの雰囲気に惑わされただけだ。今まで開かなかったのは、ふすまの桟にホコリでも引っかかっていたんだろう。
虎太郎はホッとした気分で障子を開け、さらに現れた雨戸を思いっきり引いた。この先は裏庭だ、松の木が見える……
闇に変わる前の、うす青の光が部屋に満ちた時。
「月のいずこにありや」
涼しげな声が風になってそばを抜けた。
虎太郎は息を飲みふり返る。開けはなたれ照らされた座敷、何もいない。いるはずがない。身をこわばらせ目を見開く。
そこへ、
「開けなば問わん」
とまた声が。床の間、天井、違い棚。虎太郎は視線を走らせ、そして見た。
ほの暗い中空に、何かが静かに湧き出でた。
幾重にもゆらめく影の煙が降りてくる。清涼な水にうす墨を落としたような、あるいはその水をゆく黒の金魚の尾ひれのような。
やがてそれは文机の前で人の形に溜まり、すっと姿が浮き出した。和の装束に長い黒髪、端整な顔に閉じられた両のまぶた。
「な、なに……!?」
虎太郎が引きつった顔で後ずさる。
こんなに間近にはっきりと、ごまかしも効かないほど見えてしまったのは初めてだ。思わず左手で数珠を握ると、影から生まれた存在が目を開き、彼をとらえた。
白い面がゆっくりかしげられる。
「……満ちぬ月、虎の眼のごと。ひらいたものはいたしかたなし」
少し呆れたような口ぶり。
しかしそれは、虎太郎に向かって確かに微笑んだ。笑う瞳は黒ではなく、どこまでも深い藍の色をしていた。