表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 一 】
2/50

月の屋敷に藍の澄むこと 2

 虎太郎は、沈んだ廊下に面したふすまを棒立ちになって見つめた。

 その先に隔てられているのは、屋敷が建てられたその時から決して開いたことがない…… と伝えられるいわくつきの座敷だ。


 小さいころ、彼は自分の手で確かめたことがあった。年始のあいさつで訪れた時に、大人たちの目を盗みふすまを引いてみたのだ。居間に駆け戻り、

「パパ、ほんとに開かなかった!」

とささやくと、祝い酒に顔を赤くした父は「みんな一度はやってみるんだなあ」と目を丸くした。広い肩いっぱいに手を回し、虎太郎は幼い声を硬くした。

「あれ、怖い?」

「パパはそう思わない。近所の子はお化け屋敷なんて言うみたいだけどね、そうですよね父さん?」


 軽く尋ねられた祖父は苦い顔をし、それを見た父も、母も笑っていた……

 虎太郎は頭をふって思い出を追い払う。楽しい記憶の後には別のものがやってくる。それを避けるようにここを離れたのだ。まともに足を踏み入れるのは数年ぶりだが、懐かしがるなんてことはない。

 じゃあ、どうしてこんなに気になるんだ、あの開かずの間が。



 虎太郎は大きな目をまたたかせる。

 ほうっておけよ、と頭の隅で声がした。同時に「本当に開かないのか、今でも」と心がつぶやく。時刻を知らない蝉が遠くで鳴いている。少しの蒸し暑さを感じる中、手首の冷たい数珠が揺れたような気がした。

 やっぱり呼んでいる。

 ……何が俺を呼ぶんだろう?

 音のしないように一歩を進む。進んでいく。廊下はそう長くない、すぐにふすまの前に立つ。

 そっと持ち上げた手をかけた。ぴたりとやんだ蝉の声は警告かもしれなかったが、虎太郎には届かなかった。強い使命感が指に力を加える。

 内から押さえているような引っかかりを覚えた。彼は息を整え、両手を一気に左右へ押しはなった。



 夏を追い払うようなひやりとした空気が虎太郎を包んだ。

「……開い、た」

 思わず口に出し、息をひそめて暗い座敷をのぞく。

 そこには誰もいなかった。

 安心と物足りなさが心をかすめる。廊下からの弱い光を頼りに見たところ、部屋は八畳ほど、大した調度品もないので余計にがらんとして感じた。


 いっぱいにふすまを開き、畳から天井まで見回しつつ奥へ向かう。

 書院造しょいんづくりというのか、一方に床の間と板棚が備えられている。小さな文机が据えられているのは、月若の家が書を修めてきたからだろう、と虎太郎は納得した。

 結局、ただの座敷だった。呼ぶものなんていやしない、日暮れの雰囲気に惑わされただけだ。今まで開かなかったのは、ふすまのさんにホコリでも引っかかっていたんだろう。

 虎太郎はホッとした気分で障子しょうじを開け、さらに現れた雨戸を思いっきり引いた。この先は裏庭だ、松の木が見える……

 闇に変わる前の、うす青の光が部屋に満ちた時。


「月のいずこにありや」


 涼しげな声が風になってそばを抜けた。

 虎太郎は息を飲みふり返る。開けはなたれ照らされた座敷、何もいない。いるはずがない。身をこわばらせ目を見開く。

 そこへ、

「開けなば問わん」

とまた声が。床の間、天井、違い棚。虎太郎は視線を走らせ、そして見た。


 ほの暗い中空に、何かが静かに湧き出でた。

 幾重にもゆらめく影の煙が降りてくる。清涼な水にうすずみを落としたような、あるいはその水をゆく黒の金魚の尾ひれのような。

 やがてそれは文机の前で人の形に溜まり、すっと姿が浮き出した。和の装束に長い黒髪、端整な顔に閉じられた両のまぶた。


「な、なに……!?」

 虎太郎が引きつった顔で後ずさる。

 こんなに間近にはっきりと、ごまかしも効かないほど見えてしまったのは初めてだ。思わず左手で数珠を握ると、影から生まれた存在が目を開き、彼をとらえた。

 白いおもてがゆっくりかしげられる。

「……満ちぬ月、虎の眼のごと。ひらいたものはいたしかたなし」

 少し呆れたような口ぶり。

 しかしそれは、虎太郎に向かって確かに微笑んだ。笑う瞳は黒ではなく、どこまでも深い藍の色をしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ