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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 三 】
19/50

風音と水刃 6

 阿ヶ瀬から連絡がきたのは、翌日の昼だった。


 “ハルちゃん復活したって! よかったー”


 明るいスタンプのついたメッセージを受け取って、虎太郎はやっと安心できた。

 離れた場所で解決したとはつゆ知らず、大学は依然として真夏の怪異の解明に追われていた。

 春瑠たち寮生の体調不良については一時的なヒステリー症状ではないかと結論づいたようだが、被害のあった棟は出入りを厳しく制限しているらしい。古楽器同好会の練習はしばし持ち越しとなって、春瑠に会えそうな機会も先になる。


「来月か……」

 買出しから帰った虎太郎は、台所で小さく息をついた。そこへ、藍が昼餉ひるげの気配を察してやってきて、たたずむ彼を不思議そうに眺めた。

「学舎に行きたいなら行けばいいではないか。そばに家を借りているのだろう?」

 少しピントのずれた問いに、虎太郎は苦笑いで答える。

「色々とめてきたんだよ、夏はこっちにいるって決めたから。それより藍、あの夜のこと説明してくれないか。これからのためにも聞いておきたい」


 はぐらかされるかと思ったが、妖はとても素直に答えた。

「あれが本来の姿だ。驚かせたか」

と、少し申し訳なさそうな表情を浮かべている。虎太郎はあえて軽くうなずいた。

「いきなり見せられたからな。先に教えてくれたらよかったんだよ」

「また怨霊あつかいされると思ったのだ。物騒な姿だということは、宗月そうげつにさんざん聞かされている」



 何気なく出された名前に、虎太郎はふいをつかれて相手を見た。藍はひとつうなずいてつづける。

「月若の家をずっとさかのぼった先の者だ。前に橋渡しの話をしたことがあったな」

 二つの世を結び、怪異や争いを治める調停者。

 平安の代、その一人に協力していた、と藍は簡潔に語った。口ぶりからしてあまり楽しい思い出ではないようだ。虎太郎は深追いしないことに決めた。

「なんだ、やっぱり俺のご先祖は妖怪大戦してたんじゃないか」

「そのような派手派手しいことはなかった…… と、思う」

「忘れてるのかよ」


 複雑な表情で首をかしげていた藍だが、やがて切り替わったように顔をあげた。

「虎や、こちらも尋ねたい。その数珠は大層な力を持っているようだが……」

 触れる指が熱を帯びるほどの、加護の力。石をつなぎ直した時を思い返し、藍は探るような視線で答えを待つ。

 虎太郎は「ああこれ、祖父さんの知り合いがくれたんだ」となんでもないように右手を見る。

「俺、見たり聞いたりが始まってしばらく寝込んでたから。事故の後で、もう十二年くらいになる」

 贈り主は、つきあいのせまい祖父が親しくしていた美術商の老人だった。大陸産の石という以外に詳しい話は聞いていない。その彼も亡くなってしまい、もうだいぶ経つ。

「……本当に、どうして効くんだろうな。俺にもわからない」

 そう言った虎太郎は遠い目をしていたので、藍は深追いしないことに決めた。



 月若邸の屋根は重厚な鉄色の瓦ぶきで、八月の陽ざしを吸って燃えるように熱かった。

 そこに一匹のテンがのぼってきたかと思うと、夏毛の黒い顔を太陽に向け、悠々ととぐろを巻いた。

「あーあ、水よりずっと心地いいね」

 そうつぶやいた菊火は、のんびりした口調とうらはらに油断なく目を走らせた。

 本当なら、河原でのばか騒ぎに加担する気はなかった。しかしこのところ、虎太郎の身辺がどうも穏やかでない、と妖の嗅覚が彼女に告げていたのだ。

 何者かが虎太郎を監視している。


 怪異を引き出してしまい落ち込んでいた彼を焚きつけたのは、万が一の時に身を守れるように鍛えた方がいい、という心配からだった。

 彼女の筆を盗ったのは墨妖怪の方だし、虎太郎には水ようかん分の恩はある。念のためついていって正解だった、

「あいつ、偉そうな顔しといて案外ぽんこつ」

と菊火はひとり笑いをもらす。

 だが、湧きあがる白い雲の彼方に鳥の群れを見つけ、表情が引き締まる。


 あのふたりはまだ気づいてない。

 ってことは、相手はあたしに近い獣の眷属けんぞくかもしれない。だけどそれにしては空の上が落ちつかない。不可思議な力を秘めた月若虎太郎、彼を狙っているのは一体どんなやつ……?



 テン妖が気をもんでいるその下では、虎太郎が二階の掃除をしているところだった。

「こんなもんかな」

と仕上げの乾拭からぶきをとめた彼は、偶然にも菊火と同じ方向を眺めた。ただし表情はぼんやりとしている。

 彼は、河原で倒れた後に見た光景を思い返していた。

 霧に沈んだもうひとつの川。はるかな対岸でたたずむ誰かの姿と、孤独に満ちた一瞬の目。ただの夢なのに、辿りつけなかったことがずっと胸に引っかかっていた。


 しかし、藍に相談するにはささやかすぎる。

 彼は「気にしない気にしない!」と数珠をさすってバケツを引っかけた。もうすぐお盆に入るので、神経質になってるのかもしれない。祖父がまだ病院を出られないため、夏の供養は彼にまかされている。

 父さん母さん、祖母ちゃんにご先祖さまを迎えて、とはいうが、今まで一度も “会えた” ことはなかった。藍がいればなにか変わるかもしれない、そんな淡い期待が虎太郎の中にはある。宗月といという道士も帰ってくるならば、藍と彼は話のひとつでもできるだろうか……


 少ししんみりして階下に戻った彼は、一転して、

「あーっ!?」

と声をあげた。

 平安妖怪が居間でキュウリをかじっている。

 最後のひとかけらを飲み込み、藍は彼に向かってなんともいえない表情で首をかしげた。

「虎や、唐瓜からうりは漬けた方が美味だ……」

「いやそれ馬にするやつ、お前何本食ったんだよ!?」

うまやからにあいなりました」

 両手を合わせた藍がふっと姿を消し、虎太郎は身を震わせて無人の椅子を眺めるしかなかった。




 遠いどこかの夜。

 星も眠る闇を渡る一対の翼があった。鋭い影をひいて滑り降りた先、小高い丘に一本の木がそれを待っていた。

 翼は人に姿を変え、しなやかな木の前にひざまずく。緑をおびた褐色の枝に葉がしげり、風が通るたび誘うように揺れた。

 感情のない目がそれを映す。

「見つけました」

 低い声で短く告げ、静かに頭を下げた。


 風に逆らってざわざわと木が鳴った。やがて響いた声は、枝先に抱く薄紅のつぼみのようにしっとりと可憐なものだった。

「あのお方……?」

「確かに」

 従者が答えると、声は嬉しさに咲いた。

「ああ、ついに。なればわたしはお迎えに」

 枝の上に紅の影が形をとる。人と同じ姿をしながらまったく異なる心を持って。

「もうほんの少し。いとしき方……」

と、ささやきが色づく。風に乗った言葉は、長い時間のはてに現れたひとりの青年のもとへと走り出した。



(第三話 了 )

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