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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 三 】
18/50

風音と水刃 5

 虎太郎は戦いを望まなかった。

 今はただそこにいるものを助けたい。それはなじみの妖であり、川辺にさまよう武者たちでもある。

 かげりのない純粋な気持ちだけが、彼を、守護を失った手に握られた筆を動かした。ゆがむ視界、破裂しそうな頭に唇を噛みしめながら必死に身体を支える。

 なにかを書ききったと、感じた瞬間、彼の意識は闇に閉ざされていった。前のめりに倒れこんだ時、草と土の青い香りが鼻をついた。



「なっ、なんなの!?」

 菊火は、自分を高々と取り巻いていた渦が崩れ落ちるのを目にし、飛びあがって叫んだ。大量の水が地面を打った後、川べりは一転して静けさにつつまれた。

 藍が草むらに倒れている虎太郎を見つけ、急ぎ駆け寄っていく。

「ちょっと、そいつ平気?」と菊火も慌てて追いかける。

 額に触れた藍は、

「気を失っているだけだ。一挙にして停戦とは、どんな術を書いたのやら……」

とまばたきして息をついた。


 落ちつきが戻ると、横からのぞき込んできたテン妖へ、角のあらわな頭を小さく下げた。

「恩にきる。私だけでは力が及ばなかった」

 白い獣はそれに答えず、眠っている虎太郎の顔を見た。

「色んなもの引きつけちゃって。 ……この子、なに?」

「まだわからない」

 それは、彼らのあいだで初めて取り交わされた素直な会話だった。菊火がやれやれと首をふり、橙色の目に夜を映してつぶやく。

「早くしないと雨になるよ。数珠玉も人間もさっさと拾いな、墨妖か…… いや、墨鬼すみおに、かな?」

 小ばかにするようにツンと鼻先をあげ、テン妖は閉じていく火の中へ消えた。



 虎太郎はひとりきりで河原に立っていた。

 あたりはほの白く明るいが、濃い霧がきれぎれに景色を隠す。やけに肌寒く、彼は両腕をさすった。どういうことだろう、今は八月のはずなのに。

 心細くなり首をめぐらせると、対岸…… とても遠い対岸で、おぼろげな人影が動いた。

 虎太郎はパッと火が灯ったようになってそちらへ駆け出す。砂利も岩場も越え、水に踏み入った時、霧の切れ間から相手がふり返った。


 人ではないものの目が彼をとらえ、大きく開かれる。

 それが哀しい色をしていたからこそ、辿りつかなくてはいけない気がした。



「……と、ら」

 声が呼んでいる。答えなければ、と彼はもがいた。

「とら。虎っ!」

「うわぁっ、あ!? 朝?」

 飛び起きた虎太郎は、小鳥のようにせわしなく首を回した。

 どうやって帰りついたのか、ここは確かに月若邸の居間だ。薄いカーテンの向こうは暗く曇り、強い雨音が屋敷をつつむ。

「もう昼も終わる。起きるがいい」

 テーブルに頬杖をついた藍が声をかけた。


 片隅の布団に座り込んだ虎太郎は、こちらも眠たげな妖をじっと見つめた。とがった耳以外はすっかり隠し、そしらぬ顔をしているが、聞かずにはいられなかった。

「藍、昨日の姿……」

一昨日おとついだ。昨日は丸一日眠りこけていたのだから」

「えっそんな、冗談だろ!?」

 愕然とした虎太郎に、妖がため息をついてから笑いかけた。

「なにはともあれ、腹ごしらえをしたらどうだ? 私にも茶を供してくれ、客を迎える前に休息したい」



 雨脚はじきに弱まり、夕刻には軒先から落ちる雫の音だけが響いていた。

「ご老人の蔵書を拝借したが、あのあたりで合戦が起きたという記録はなかった。具足からすると、私のよく知る世からやや後の話だろうが……」

 青の間で文机についた藍は、顎に手をやって考え込む。虎太郎は座布団の上でスマホをかまえた。

「ええっと、平安の次っていうと鎌倉から室町?」

「そう呼ぶらしいな。それにしても器用につつくものだ、小鳥のついばみに似る」

と、藍が感心して手もとを見つめる。虎太郎の手首には、拾ってつなぎなおした数珠がしっかり納まっていた。藍と同様こちらも元どおりだ。


「ううん、該当なしか。大将を探してたから、落ち武者だったのかもしれないな」

 探していた、という言葉に藍がまばたきを返す。

「足止めということもある」

「あしどめ?」

「劣勢におちいった時、自軍のかなめを逃すために命をかける役だ。普通ならば志願するか指示を受けるかだが、あのものたちの様子はなにか違う……」

と難しい表情に変わる。

 虎太郎はその先を読み取った。将に見捨てられた駒。

「利用されたってことか、味方に」

「それは本人も知らぬままだろうな」

 哀れみを込めた視線でうながされ、彼は裏庭へ顔を向けた。


 まだ重い雲が残っていて、あたりの空気はかすんだようだ。片隅の松の木の暗がりに、一人の武者がたたずんでいた。

 虎太郎はそっと立ちあがり、座敷の中ほどまで進む。やはり、あのとき川下にいたかしらだ。昨日の夕方にも現れた、と藍から聞いていた。

 兜の奥の顔はうす暗くぼやけているが、わずかに肉の張りつく骸骨がいこつのようだ。両目の位置には黒い空洞、しかし敵意は抜け落ちているのがわかり、虎太郎はもう彼を恐れなかった。

「お前は、仲間をつれていきたいんだな。迷いのない場所に」

 後ろから送られた涼気が筆をとらせる。鎧武者と向かい合った虎太郎は、いっぱいに腕を伸ばすと、大きくていねいに一つの文字を書いた。


 遂


 という青い影が宙にとどまる。

 どんな事実が隠されていたとしても、彼らは戦い抜いた。虎太郎は、その魂に安らかな終わりを知らせたかった。

 彼の字は、空中でふわりとにじんだかと思うと、小さな虫の影へと形を変えた。ぽっとうす緑の光が灯る。蛍だ。

 ふっと浮いた光が武者の頭を越えてゆく。彼は初めて動きを見せ、蛍を追って首をめぐらせると、そのまま動きをとめて遠くを眺めた。


 甲冑の肩が少しだけ震えている。

 しかしそこに声はなく、静かな感情の波が彼の中を通っていく。

 武者が座敷をふり返った。人と妖がそこにいるのを見つめ、やがて光の去った方向へ一歩を踏み出す。その足が地に着く前に、すうっと消えた。



 虎太郎と藍は、誰もいなくなった庭を眺める。青黒い雲を割って世界にそそぐのは、鮮やかな色のまざった夕焼けだった。

「初めて救えた」

 立ち尽くす虎太郎がつぶやく。

「そう。お前の力で」

 藍が穏やかに返すと、青年は清々しい笑顔を夕陽に染めてふり向いた。

「三人の力だ。そのへんにいるんだろ菊火、あの時はありがとうな」

「礼は結構だが、菓子でも出さなければ現れぬだろうよ」

 藍のつぶやくとおりいくら声を張っても答えはなかったが、虎太郎は届いているということにした。

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