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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 三 】
16/50

風音と水刃 3

 手の形をした呪いは、泥の色で記されたという。

 会長のメッセージはこうつづく。


 “偶然見ちゃったすごかった。

  講義棟も研究棟も手の跡でベタベタ、あれは思いつきのいたずらじゃできない量だよ”


 一番の被害を受けたのは学生寮だった、と教えてくれたのは阿ヶ瀬だった。

 寮生たちが次々に体調不良を訴えているが、まだ原因がわからない。大学側は病院や保健所、それから警察との連絡対応に追われているらしい。


 “ハルちゃんも具合悪いみたい。大丈夫って言ってたけど……

  ほんとにどうしちゃったんだろう、なにかわかったら連絡するね!”



「沖野さんまで……」

 呆然とする虎太郎を、事情を察した藍が座敷へ引き戻した。

「虎や、昨日の祭りで学舎のそばに行ったのだな。なにか心あたりは」

 ゆっくり尋ねられ、彼は眉をひそめて首を横にふった。

「河原に下りた時、気配が少し。でも練習してたらすぐ消えたから」

「練習? まさか笛を!?」

 血相を変えて詰め寄った藍に、虎太郎は「うん、吹いた」と目を丸くしてうなずく。妖は手の甲を額にあてて天をあおぎ、「くあぁ」と声にならない声を上げた。


「……もしかして、まずかったか」

「夏の水辺で笛を奏でるとは、平和ぼけ虎に極まれり。川の流れは迷える魂を誘う、なにを引きあげてもおかしくはないぞ」

「じゃあ俺のせいで大学が、みんなが」

 言葉が途切れ、サッと血の気が引く。慌てた藍の手が伸び、固まった肩に触れた。

「いやすまぬ、川と聞いて動じてしまった。それほど広きに瘴気しょうきがおよぶとは、たしかな力を持つもの…… 遅かれ早かれ這い出してきただろう」

 深い青の目は虎太郎を責めない。しかし鏡のような瞳に自分の不始末が映る気がして、彼は顔を伏せた。


 するとその時、沈みかけた座敷に甲高い声が響いた。

「あーあ嫌だね、くよくよ男のボケなすび!」

 ハッと見れば、庭先にちょろりと伸び上がった夏毛のテン。

 妖の菊火はひとっとびに縁側を越え、走り寄ってくる。藍はすばやく身をよけたが、追い払いはしなかった。

 愛嬌のある黒い顔がまぢかになって人間を見上げた。

「なぁにボサッとしてんのさ。落ち込むより先にやることがあるんじゃないの、月若虎太郎」


 馬鹿ニンゲンから格上げされた彼は、菊火と視線を交わして少し唇を動かした。張りついていた怯えは、顔をあげた先で藍をとらえると、薄膜をはがすように消え去った。

「……俺が治める」

 小声ではあるが彼が言いきった時、二匹の妖怪はおそろいの表情に変わった。挑むような励ますような、人には真似できないしたたかな笑顔に。



 昨日訪れた町へ、虎太郎はふたたび足を踏み入れた。

「行き先は大学じゃないのか?」

 月若邸を出発する前に尋ねると、「怪異の本質は川にある」と藍は答えた。

「学舎を襲ったものと、それを指揮するもの。後者を治めれば一件落着だ、おそらくは」


 虎太郎が準備したのは二つの持ち物。

 ひとつは竜笛、もうひとつは矢立やたて…… 古来から使われた、筆と墨をまとめて携帯するための細い筒だった。祭りの浴衣と同様に、藍が自分の領域から持ち出してきた物で、これがあれば青の間と通じていられるらしい。

 土手に立った虎太郎は、口を引き結び黒い川を見据え、一歩ずつ斜面を下りていく。今日は下駄じゃなくてスニーカーだ、いくらでも大立ち回りできるぞ。自分を鼓舞して草むらを進み、開けた川べりでとまった。

 斜めにかけたボディバッグから笛を取り出す。それと同時に、彼のとなりに墨影のたゆたいが降り、水色の狩衣をまとう妖に変わった。



「外の世界も、そうそう変わらないものだな」

 暗い川を見渡した藍は、品のある目もとを少し細める。ただ懐かしがるのとは違う複雑な感情がかげりを与えていた。

 その顔が虎太郎へ向けられる。無言でたたずむ彼らを、道沿いの街灯が微弱に照らす。

「笛を頼む」

 藍の声にうなずいた虎太郎は、川を正面にして体勢を整えた。横笛をかまえ、水の流れにそっと音を乗せる。単純でゆったりとした物哀しい旋律が、風と一緒になって河原を駆け抜ける。

 空高くの気流は速い。暗くて薄い雲が大きく動き、わずかのあいだ月が姿を見せた。満月へとふくらんでいく途中の、くっきりと黄色い月が夜に焼きついている。


「虎」

 ささやかれた名に笛がとまる。

「なんだ」

 人が問うと、妖は首を天へ伸ばしたまま告げた。


「なにを目にしても、己をたもて」


 その言葉と横顔は、極限まで研がれた薄い刃のようだった。

 虎太郎が心を打たれた時、川の深くから重い水音が響き意識を引き戻した。

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