風音と水刃 1
八月に入って少しすると、虎太郎は山場を迎えた。夏祭りの日、古楽器同好会の助太刀の本番がやってきたのだ。
「今からあがってどうすんだよ……」
と心につぶやき、電車の中を見回す。
祭りが始まるまでまだ間があるが、会場に向かうらしい人が目についた。同じくらいの学生たちや、子供づれの家族。色とりどりの浴衣が平和でうきうきした空気を作っている。
大学近くの駅に下り立つと、たくましいワゴン車が約束の時刻ぴったりに現れた。運転席の会長が笑顔をのぞかせ、虎太郎はぺこりと頭を下げる。
ドアを開けた阿ヶ瀬が「暑いでしょー、早く早く!」と手まねきし、メンバー全員が車内にそろった。マイペースな先輩男子は最後部席で荷物に埋もれ居眠り中だ。
発進と同時に、会長が元気な声をかける。
「川沿いに出たらすぐだから。虎くん、準備ばっちりじゃん」
「そうですか?」
と、虎太郎は恥ずかしそうに頭をかいた。慣れない浴衣の袖が下がって数珠が鳴る。阿ヶ瀬が感心してうなずいた。
「ほんと決まってるー、さすがお屋敷の住人って感じ! 着物とかたくさん持ってるの?」
「いや、これも借り物なんだ。なんとかなってよかったよ」
気軽に答えた彼だが、なんとかなるまでには一悶着あった。
夏祭りの衣装は浴衣にしたい、という女性陣の申し出を、こだわりのない虎太郎は二つ返事で了解していた。
屋敷を探せば適当な物が見つかるだろう、とのん気に練習していた彼は、本番が迫って冷や汗をかくことになった。
「おや虎、まだ浴衣を所望か? そのへんの行李をさらっていたではないか」
ふいっと現れた藍が不思議そうにのぞき込む。板切れ電話を必死に操っていた虎太郎は、情けない顔を向けた。
「家にあるやつじゃ大きかったんだよ、祖父さんやたらと背が高いから。もうこれにするか、無難な絣……」
彼が画面をつつきかけると、「否、色が安っぽい!」と藍の手が邪魔に入る。虎太郎はげんなりして妖を見返した。
「いいんだよ、安いんだから。年に何回も使わないし」
「だからこそよい品を選ぶべきだ、人前に立つならなおのこと。少し待っていなさい」
と張りきって影に消えた藍は、すぐに大きな荷物を抱えて出現した。よほど急いだのか髪を乱し息を切らしていて、虎太郎は思わず身を引いた。
「なんだそれ、どこから持ってきたんだ?」
藍は彼の様子にかまいもせず、畳の上で風呂敷包みをほどく。次々と浴衣を取りあげ、果し合いにおもむくような真剣さで虎太郎の肩に合わせはじめた。
「柳、桑染め、水浅葱…… 薄きは駄目だ、顔に負ける。松葉よりは深緑が、いやこれもしっくりいかない。虎色というのはあったろうか」
「そんな必死にならなくても……」
保護者かお前は、という言葉を飲み込んだ時、「ああ、これなら!」と藍が晴れやかな声をあげた。
白い手が広げているのは、細い縞柄の浴衣だった。落ちついた紫と若々しい水色が、刷毛で掃いたようにすうっと縦に走る。虎太郎の目にもほかの物とは違って見え、彼はぱちぱちとまばたきした。
「へえ、かっこいいな」
「そうだろうそうだろう。高貴な紫だから高貴に吹きなさい」
得意満面の藍に礼を言いかけ、虎太郎はふと尋ねた。
「これ大丈夫か?」
「ああ間違いない、帯は紺無地がよいね」
妖はいよいよご満悦、しかし人は真顔になる。
「そうじゃなくて。この浴衣、急に透けたりしないよな?」
祭りの会場は、商店街を含む一帯の道路と、その先にある神社をひっくるめた立派なものだった。並んだ屋台は夕暮れに染まり、人も集まってきている。
境内の片隅で出番を待っている虎太郎は、目を丸くしてざわめきを見渡した。
「こんな大きい祭りだったんだ」
気圧される彼の背中を、「おっ、予想外だった?」と会長の涌井が叩いた。
「そんなしゃっちょこばらなくていいよ、規模はあるけどゆるーいお祭りだから。地元もんが保証する!」
と豪快に笑う彼女は、長身によく映える大きな柄の浴衣をまとっている。淡い黄色地とくっきりした桔梗のコントラストが鮮やかで、三味線をさげる姿に粋がただよう。
虎太郎が笑顔を返した時、人ごみをかきわけて阿ヶ瀬がやってきた。こちらは赤に水色の小花柄、ピンクの帯がかわいらしいが、八の字眉毛の困り顔だ。
「会長、シロさんが消えました! そこでヨーヨー釣ってたはずなんですけど……」
しかし涌井は「あー平気平気」と手をひらひらさせる。胡弓の白城とはよく知った間柄、行動パターンはだいたい読める。
「どっかでおっちゃんと飲んでるんじゃないかな、そのうち戻るでしょ。時間あるし、虎くんもちょっと歩いてくる? 身体ほぐしてきなよ」
「は、はい」
笛を握りしめていた彼は、ありがたく境内を離れ喧騒を抜けた。
少し歩けば、町を縦断する大きな川に出る。にぎわいにかわってせせらぎと水の香りが虎太郎を迎えた。草のしげる土手を下れば、世界が分けられたように静かになる。
みんな祭りに引きつけられているのか、対岸に犬を連れた人が見えるのみだ。下駄の鼻緒を気にしながら水際すれすれまで歩を進める。ちょうど夕陽が引っ込み、穏やかな宵が降りかかってきて、彼はホッと息をついた。
どうせなら、練習しておこうか。
周りを確かめてからそっと竜笛をかまえる。顔の右側でやわらかく両手を添え、息を吹き込んだ。
よく通る高音が風に乗っていく。天を駆ける竜の鳴き声ともいわれる笛の歌は、少しかすれた尾を引いて川面を渡っていった。
この笛を屋敷のたんすからひっぱり出したのは、祖父と暮らすようになって半年ほどしたころだった。あの時はまともに音も出せなかったな、と思い返す。
それでもやめなかったのは、目をつむって吹いていると身のまわりのことを忘れられるからだった。数珠をつけてさえ感じとれる影や声だって、頭から追い出してしまえばいい……
だが、今は違う。
俺もちょっとは成長した、と彼は笛をかまえたまま左右に視線を走らせた。
誰かに見られているような気がしたのだ。それも、たくさんの目に。
感覚を鋭くして異変を探す。しかし川べりの眺めは変わらず、高い土手のどこにも人影はない。ずっと下流で犬の吠えるのが聞こえると、彼は心を笛に戻した。




