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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 二 】
10/50

菊火てんてん 3

「虎くん、なんかお疲れじゃない? 大丈夫?」

 笛を下げた虎太郎をのぞき込み、会長は三味線のバチをぱたぱたふるった。机の上の琴に向かっていた阿ヶ瀬も「本当、ちょっと青白いね」と心配そうに声をあげる。

 虎太郎は慌てて首を横にふった。

「ただの寝不足、平気です」

「わかるよ、昨日の夜暑かったもんなあ」

 もう一人の先輩があいづちを打つ。こちらは胡弓こきゅうを膝に乗せていて、楽器と同じように細長い身体つきをしていた。


「僕のとこなんて道のどん詰まりだから、余計にひどいんだよね。それで夜中に目が覚めちゃって……」

とにこにこする彼へ女性陣が冷たい目をむける。

「目覚めたついでに冷蔵庫開けてビールでしょ、わかってるから」

「シロさんのことだから白ワインかもしれませんよ、会長」

「まあまあどっちもちゃんと飲んだから。ここらでお開きにしようか、初回と思えないくらいまとまってたよね」

 動じない先輩のマイペースなまとめとともに片づけが始まり、虎太郎は実のところ安心した。



 彼は疲れはてていた。

 なりゆきで始まった書の特訓は、同好会の練習ほどうまく行かなかったのだ。

「まずは楷書かいしょから。自分の名を書いてごらん」

 脇にはいつの間にか墨の満ちたすずりが、正面には半紙が、その先に妖怪が。逃げられないと悟った虎太郎は、冷や汗をかきながら震える小筆を動かした。

 硯に筆を置き、そっと師範をうかがう。白紙の隅っこに並んだ “月若虎太郎” を穴の開くほど見つめた藍は、やがて呆然として顔をあげた。

「……これが、虎を名に負う者の字だと?」


 自分よりショックを受けている相手を見て、虎太郎は顔を赤くして眉を吊りあげた。

「これでわかったか、根本から向いてないって言っただろ!」

「そして私は楷書と言った! つまりは点画を正確に、しかしこの字は丸くてふにゃふにゃ、まるで猫、トラ柄の猫ではないか……!」

 わなわなと身を震わす妖は、涼しげな目に涙を浮かべていた。

「そ、そんなに傷つかなくても……」

と、虎太郎も鏡うつしに震え出す。

 気を立て直した藍が手本をつくりつきっきりで指導を続けたが、猫の猫らしさが増すばかり。夜半の手前で「もはやこれまで」と揃って倒れた時には、数珠の虎眼石までもが輝きを失って見えた。


 だが、虎太郎の受難は終わらなかった。

 二階を使う気がしない彼は、こちらに戻ってから広い居間の一角を自室がわりにしていた。稽古を終えて這って寝床に戻り、すぐに眠りに落ちたのもつかの間、暗闇の耳もとでこそこそと音がする。

 笑っているのだ。

 危険は少ない相手だと聞いていたが、それでも冷たい一本指で背筋をなぞられた。横向きにちぢめた身体の奥で心臓が大きく打ちはじめる。目を開いたものか藍を呼んだものか……

 すると、忍び笑いがはっきり形をとって耳に届いた。

「ニンゲン、人間! 起きてんでしょうが、聞きなっ」


「いっ……?」

 思いがけず甲高い声が静寂を破り、虎太郎はこわばった身体をびくつかせる。顔のそばに置いた腕で数珠が音を立てた。声の主は彼に近づこうとせず、姿をとらえることはできない。

「あのね、教えたげる。筆なんて取っちゃだめだめ、妖にしたがえば終わりに地獄、そっから先はありやしないよ」

「な、なにを、お前」

 固まったままやっと小声で返す。頭のすぐ後ろでなめらかに身を伸ばす気配がした。どうやら動物みたいだ、と虎太郎が必死に考えていると、「はっ」と小ばかにしたため息が床に落ちた。

「本当にわかんない? あんた、あの墨妖怪に騙されてんよ。書を続けたら取り殺されちゃうんだから!」

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