「既存の作品に不満があるなら、自分で理想の作品を書けばいい」って、それ本気で言ってますか?
たまたま読んだエッセイの内容が、要約すると「文句があるならお前が書けや」でした。
それを読んだ私はあまりにも短絡的な論旨に驚き、呆れてしまいました。
当初はエッセイの作者様(以下A氏)に感想をお送りしようと考えましたが、思う所があり過ぎて長文になってしまい、かつ「気になる点」どころの話ではなくなってしまったため、エッセイという場をお借りしてこの想いを形にしておこうと思った次第です。以下が本エッセイの内容となります。
我々が日々接している創作物は小説だけに限りません。プロフェッショナルな作品からアマチュアの作品まで、音楽、絵画、映像作品や漫画、イラスト、はては動画サイトに投稿されるゲーム実況やアニメMADなども創作物でありましょう。
その中で、それぞれの作品に大なり小なり不満を持つ事は日常茶飯事です。「なんでここがこうなるわけ?」「この部分をもっとこうした方いいと思うのにな」と感じるのは至って普通の事だと思います。特にアマチュアの作品には(それは出来の良し悪しに関わらず、アマチュアだからという先入観が、受け取る側に不満を抱くハードルを低くさせている面もあるでしょう)。
ただ、その感情にA氏の論旨を当てはめてみると、大変なことになってしまいます。
気に入らない曲がありました。じゃあ自分で作詞作曲すればいいじゃん。
気に入らないイラストがありました。じゃあ自分で好きなように描けばいいじゃん。
気に入らないゲーム実況がありました。文句があるならお前がやれば?
そんなことを一々やっていてはきりがありませんよね。ですので既存の創作物に不満がある場合、一般的には自分で創作したりせずに、より自分の理想に近い別のものを探し求めるでしょうし、それが自然なことだと思います。小説もまた然りです。なろうであれば、気に入らなければ読むのをやめて別の面白そうな作品を探します。
それを、不満があるなら理想の作品を自分で書けばいいと言われても、なぜ小説だけそのように特別扱いをしなければならないのでしょうか。
それは創作における「文章を書く」という事が、現代人にとって最も容易なもののひとつであるのと関係しているかもしれません。小説も文章の連続であり、他の創作物に比べて「ユー、やってみなよ」と気軽に勧めやすいのは間違いないでしょう。
また、小説には「二次創作」という文化があります。元作品が二次創作者によって様々な形に改変されますが、その原動力となっているのは元作品に対する熱い想いや、好きだからこそ感じるもどかしさなど様々でしょう。もちろん展開に不満があるからという理由も含まれるはずです。
そして、我々が利用している小説家になろうというサイトは作者と読者が混在している特殊な環境です。読者の中には別作品の作者がいますし、読み専の方の中にも潜在的に作者側へ移行する素質をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
そういった考えが無意識に働いた結果が、A氏に上記論旨のエッセイを書かせたのかな。
ただ、A氏の考えの中からすっぽりと抜け落ちていたことがあります。小説を書く事が万人にとって楽しみとなりえるわけではないのです。読むのが好きで書くのも好きな人がいれば、読むのは好きだけど書けない人だっています。ましてや、自分の書きたい理想の作品を書ける筆力を持つ人がどれくらいいるのでしょうか。
A氏は小説においては執筆する側ですので、小説を他の創作物より一段高い所に位置付けて、「自分がやっているのだから他者も当然できるはずだ。ましてや自分と同じなろう利用者なんだから執筆の楽しみを感じられるだろう」と論旨のような考えをお持ちになったのかなと考えましたが、そうであるならばあまりに一方的で狭窄的なものの捉え方だと感じました。
まとめますと、
①創作物に不満を持つたび自分の理想を作品化しようとしていたら、きりがない。てか無理。
②だから不満があるならより自分好みの作品を探すよ。
③なろう利用者のみんながみんな書くのが好きなわけじゃないんだよ。
①、②、③の理由から、A氏の「文句があるなら自分で書けば?」と言う論旨は受け入れられません。
ということになります。
以上で本エッセイは終了となりますが、もし最後まで読んでくださった奇特な方がおられましたら、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。