波打ち際の線香花火
「えー!真紀ケッコンするんだって!」
その声を筆頭に、オメデトー!と女子の集まりからキャアキャアと黄色い声が上がる。最も、女子、という年齢でもないのだが。
お盆ということで同級生が帰省しているということもあり、地元の海の家で騒がしく飲んでいた。もう泡も残ってない生ビールは結露でテーブルを濡らすだけだった。
「へえー、長谷川結婚すんだ」
「あいつがいちばん早いと思わなんだ」
キャアキャア騒ぐ高い声とは反対に、低いオヤジ臭い声だった。無論、オヤジという歳ではない……と言えたならいいのだが、残念ながらベタつく汗は“オヤジ”のそれだった。
そのジリジリと照りつける熱さの中、ヒンヤリと冷えた生ビールのジョッキには結露ができていた。キャアキャアと質疑応答する女子からは少し離れたところで、俺たち男はぼーっとその様子を見ていた。
寛太は結露でボタボタに濡れた生ビールを一口飲むと、思ったより生ぬるい感覚に顔をしかめた。
「やっぱ女ってのは、結婚に食いつくもんだなぁ」
「そりゃあ、夢いっぱい幸せいっぱいだからな」
旦那さんはどんな人なの、結婚式はするのなどと話の中心になっている彼女、長谷川真紀を見ると、なんだか照れ臭そうな笑顔で1つ1つ丁寧に返していた。結婚式はウェディングドレス、婚約者はいいとこの出の坊ちゃんのようだった。きっとエリートで、幸せ街道まっしぐらなんだろう。
「寛太、長谷川のこと好きだっただろ?」
耳元でボソリと、同級生が寛太に呟く。当たり前に、その声は打ち寄せる波と海の家に流れる爆音で流れる音楽で、騒がしい女子たちの中心にいる長谷川には届かなかった。
騒がしく髪も茶に染め化粧で着飾った中、白い肌に黒い髪、すこし汗をにじませた長谷川は浮いているようであった。まるでそこだけまだ中学生の純白が残っているようで。それは、少し異質で。
「中学生の頃の話すんなよ」
「否定はしないんだ」
「みんな好きだったろ」
ハハ、と笑うと懐かしいなあ、とため息を吐いた。長谷川は2つ結びが似合う、綺麗な子だった。いや、今も綺麗なのだけど。
所謂いいとこのお嬢様で、話し方も丁寧で優しかった。もちろんそんな子、モテないはずがない。モテたのだ。すごく。俺ももちろん例外ではなかった。
そんな長谷川と俺の唯一の思い出といえば、中学生の頃のクラスメイトでした花火だった。やすいコンビニで売ってる花火を2つ3つ買って、砂浜で遊んだことだな、と感慨に耽る。その時は安い花火も、とても高価なものだった。男子はヤイヤイとロケット花火を飛ばして女子に危ないと怒鳴られた。あいつはあいつの事が好きだとか、そーいうのやめなよ、とか、よくあんなくだらないことで騒げたなと感心する。
よく覚えてる。あの日は、暑い熱帯夜だった。笑い疲れて顔も体も熱くなった俺は、履き古したビーチサンダルを脱ぎ捨てて冷たい波に足をつけた。ヒヤリと感じる冷たさは楽しさに興奮しすぎた心臓をすこし落ち着かせてくれた。
「寛太くん」
聞き慣れた声に勢いよく振り向くと、長谷川が立っていた。黒い髪に白いワンピースで来ていた長谷川は、いまでも思い出せるほど中坊の俺には綺麗な景色として焼きついていた。波が引いて、足元の砂が取られる。ズズ、と埋まる足のせいで体がよろめいた。
「うわっ」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ、こんくらい」
とてもうるさいクラスメイトが近くにいるはずなのに、まるで二人の世界になったように長谷川しか見えなかった。白いワンピースと、触らなくてもわかるほどの細く柔らかそうな髪は潮風に靡いていた。誰も触ることがなかったのだろうが。否、触れることが出来なかった、と言ったほうが正しい。
「……で、な……なに?」
「お盆に海入ると、幽霊につれてかれちゃうんだよ」
長谷川は、知ってた? と悪戯にはにかむ。
「つ、連れて行かれないよ」
連れてかれちゃっても知らんからね、とまたクラスメイトの喧騒の中に走っていった。そんな怖くもない迷信に、心臓が高鳴った。その心臓の高鳴りが長谷川のせいだとすぐ理解できなかった中学生の俺は、迷信を信じたわけではないが、海からすぐ上がった。ヘタレの中坊な俺は、それだけでゆでだこになるくらいの青春した思い出として心に刻んだのだった。
「……ほんと懐かしいな」
「俺らも歳取るわけだよなぁ」
「オヤジくさいこと言うなよ」
そんな回顧する日と変わらず楽しく過ごした。変わったのは手元に酒があるということだけだなと思う。楽しいことも悲しいことも酒を飲んでしまえば、という方法が身についてしまったこのは喜ばしくない成長ではある。
あっという間に夕日が落ちて真っ暗になった。人が閑散としてる砂浜で、花火買って来たよ! とコンビニ袋をぶら下げた同級生が満面の笑みで砂浜にドサドサとまく。そこには中学生の頃高価で買えなかった打ち上げ花火も混じっていた。
「おい、おすなって!」
「ビビんなって! はやく火ぃつけろ!」
導火線に火をつけると、急いで打ち上げ花火から離れる。砂浜に足を取られつつも、早く打ち上がってしまうのではないかと余計に走る。
導火線が筒にジ……と姿をひそめると、少しの沈黙の後赤い火花がシャアと音を立てて吹き出す。パチパチと小さな花火が更に華やかさを増している。真っ暗な闇を、赤いオレンジ色の光がみんなを照らした。
「きれー!」
「夏って感じね」
その火から、他の手持ち花火へと火を移し個々で楽しみ始める。
暗い砂浜でポツポツと光る手持ち花火を遠目に、熱くなった体を冷やそうと波打ち際まで来た。あの日と同じだな、とやんわりと昼話したことを思い出しながらも手持ち花火の光を遠目で見ながら、タバコを出す。中々つかないライターにイライラしながらも、やっとの事で火をつける。スゥと肺いっぱいにスウと寛太くんタバコ吸うんだね、と後ろから声が聞こえる。
「長谷川か」
「もう、長谷川じゃなくなっちゃうけど」
「……遠くからだけど聞こえたよ、おめでとう」
「……ありがとう」
中坊の頃とは違って、スムーズに話せている気がして、嬉しかった。そんな中、横顔を見ながらタバコの煙を吐く。長い睫毛は下を向いて、ちょうどウェディングのベールをかぶる角度がこのくらいだろうな。こんなタバコの白い汚れたモヤでなくて、シルクの綺麗な白いベールがかかっていたら、それはそれは綺麗だろうなと思った。
「……綺麗だろうな、ウェディングドレス」
酒は、時にいらないことを口から漏らす。嘘くさく女を褒めるチャラ男でもない俺が、なんてクサイことを言うんだと自分で自分が気持ち悪くなった。それが本当に思っていることだとしても、今言うことではない。これからも言うことではないし、俺が言うセリフでもない。
「あ、いや、変なこと言ってごめん」
「アハハ、ありがとう」
潮風で白い煙ったいモヤはすぐ流れていって、2人の間に流れるものは潮風しかなくなる。自分の視界で悲しげに笑う長谷川が、はっきりと見えた。火のついてない線香花火を指でクルクルと回す。そんな横顔を見てすこし高鳴る胸は、飲みすぎた酒のせいか、蘇って来た淡い恋心か、分からなかった。飲みすぎた酒のせいにしたかった。
「寛太くんは結婚しないの?」
「うーん、まず相手がいないしな。いつかはしたいけど」
「……そんないいものじゃないよ、結婚って」
その言葉に、すこしどきりとした。可能性があるのか? と思った訳ではなかった。が、変に陰を落とす言い方が今は嬉しかった。つくづく俺は性格の悪いやつだなと自分で実感する。
「……マリッジブルーてやつ?」
「……そんなとこかな。ね、火、ちょうだい。」
目の前に線香花火が出される。先ほど中坊の頃よりスムーズに話せる、なんて思っていた矢先、こんな少し近づいただけでドキッとする。やっぱり成長してないな、と思いながらライターで火をつける。ゆっくりと、ライターの火が線香花火に移る。
潮風に揺れる黒い髪は中学生の頃と変わっていなかった。まるでここだけ中学校の頃に戻ってしまったような感覚になったが、自分からするタバコの香りで現実に引き戻される。長谷川は、打ち寄せる波をただひたすら眺めてる。長谷川をじっと見つめているのも変だと思い、ただ波を見てタバコを吸う。2人の間に、沈黙が流れた。
「私、中学生の頃、寛太くんのこと好きだったんだよ」
「……え」
そんな唐突な言葉にすこし動揺しつつも、長谷川のほうを向く。取り繕うかのようにとっさに出て来た言葉は、自分でもかっこわるいと思った。
「中学生んとき言ってくれればよかったのに」
ハハ、と文字だけで笑うようにタバコを吸う。隣にいる長谷川はもう婚約者がいて、しあわせな花嫁だというのに何故か胸が高鳴る。タバコを吸う息も、何故か深くなる。肺いっぱいにすったタバコの煙は何一つとして自分の心を落ち着かせてくれなかった。
「……言ってたら、なんか変わったのかな」
遠くの花火の火と、タバコの火だけでぼんやり浮かんでいる長谷川の顔は、白くて、まるで中学生の頃となんら変わりはなく綺麗であった。線香花火が、パチパチと弾け始める。弾ける玉を見る長谷川は、悲しげに見えた。それこそ、自分の願望も入っているのかもしれないが。花嫁ってのは、もっと幸せいっぱいではないのか。
「変わっ……」
変わってた、と言ったら、どうなるだろうか。変わってないよ、と言ったら、寂しげな顔をさせてしまうだろうか。
『変わってないよ。いまの婚約者と幸せにな』『変わってたよ、今からも変えられるよ』……どちらにせよ言わなかった……いや、言えなかったのはただ自分が弱いだけだと思う。そんなことも言えない俺には、長谷川の手を取って奪うなんて度胸があるはずもないのだ。ましてや、奪われたいだなんて長谷川自身も思ってないはずである。
「……どうだろうな」
「……変わってたら、良かったな」
ポツリと長谷川が呟いた。ただ火花が散る線香花火を見つめる長谷川は、とても悲しげだった。そんな悲しい顔をさせる婚約者に何故か苛立ちながら、中学生の頃の淡い恋心を打ち明けられただけで、ただの会社員の、ただの元クラスメイトの自分に何が出来るのかと、ただ、だんだん大きくなっていく線香花火の玉を眺めていた。
「……」
何も話す事がなく、ただ打ち寄せる波とパチパチと弾ける線香花火を眺めるだけであった。細い指につままれた線香花火は、風が吹けばふらりと揺れる。
「寛太くん」
大きくなった玉が、波に落ちる。クラスメイトの遠く聞こえる喧騒と、波の音の中に綺麗な声が響いた。
「お盆に海に入ると幽霊に連れてかれちゃうんだよ」
もしかしたら、長谷川も中学校の頃の話を覚えててくれてたのかと、どきりとする。お盆近くはクラゲが増えるから、子供たちが海に入らないよう言った迷信だとか色々説はある。そんなことは今どうでもいいのだが、切なげな長谷川は、本当に連れて行かれそうであった。
「……連れて行かれないよ」
そういうと、長谷川はまゆを少し垂らして、ふふ、と綺麗に微笑む。高価そうなシンプルなサンダルを雑に脱ぐと、長谷川が海に足をつけた。
「本当かなぁ」
何故か残念そうに言うと、そのままザバザバと海に進む。臆することなく、スカートが濡れるのもきにする様子もなく太ももまで浸かってしまった。
そんな長谷川にすこし焦りながら、危ないと声に出す前にタバコが口から落ちる。ジュ、と赤い火が消える。火がなくなった2人の間に、浜から攫われて流れていくサンダルと綺麗になびく白いワンピースがぼんやりと浮かんでいる。海に佇む長谷川は、中学生のまま可憐さを持ちながら艶やかさもある。黒い髪は深い藍色の夜空に溶けた。綺麗だ、というだけでは陳腐だと思うほど、綺麗だった。
「長谷川、危ないよ」
「冷たくて気持ちいいよ」
そのまま流されていってしまうのではないかという儚さと、脆さと、奥にある凛とした芯は俺の鼓動を早くさせた。夏、酒、張り付く汗と高鳴る鼓動は正常は判断を阻害する。長谷川の、彼女の一言一句が、今は怖かった。何か、自分が間違った判断をしてしまいそうで。
自分の心の中の、何かが大きくなる。気付いてはいけないものが、いけなかったものが、のさばってくる。2人の間に沈黙が流れる。
「寛太くん」
遠くの喧騒と、波の音、蝉の声。タバコの心もとない明かりが落ちた時、彼女の声だけが、頭の中に綺麗に、静かに、……切なげに響く。
連れていってよ
波にさらわれたタバコが、彼女の足元に届いた。