鏡のきみ
鏡に自分が映らなくなったのはいつからだろう。
少なくとも、小学校の入学式前にはすでに映らなくなっていた。そもそも、少年は自分の事が嫌いで、ともすれば身だしなみをするのが億劫になるほど、鏡を見ることがなかった。だからその現象に鉢合わせた時、酷く驚いたものだ。
「どうして僕が映らないの?」
「それはね。……ふふ、何でだと思う?」
鏡の向こうで話すのは、自分ではなくて見知らぬ女の子だった。セミロングの艶やかな黒髪をなびかせて、大きなぱっちりとした丸い目をきらきらと輝かせ、可愛らしい口元で笑う女の子。フリフリの真っ赤なワンピースに身を包んだ彼女は、どう見たって少年よりずっと愛されて育っていて、幼いながらに彼は鏡の向こうの少女に、嫉妬を覚えてしまった。
「きみは、だあれ?」
初めて自分ではなくて、少女の姿が映った時、少年はそう問いかけた。これから小学校の入学式があって、ランドセルを背負い、たまにはぼさぼさの髪を整えて、母が嫌う父親似の顔を見なければと思っていた矢先だった。まったく、これでは身だしなみが整えられない。折角の入学式だというのに、お母さんに叱られてしまうではないか!と普段は身だしなみなんて全く気にしない彼が理不尽に怒りをぶつけると、少女はごめんね?と舌を出して謝った。
「私は私。あなたはあなた。それでいいじゃない」
全く訳の分からないことを言った少女との会話は、その日はそれで打ち切られた。ちっとも準備を進めない少年の母親が怒って急かしたからである。結局ぼさぼさの髪は、ベランダを映す窓ガラスで直した。鏡には少女が映ったままだったからだ。
それから数日後、ようやくクラスメイトの顔と担任の先生を覚え始めた頃、少年は鏡に映った自分ではない少女を思い出した。あの子は結局誰だったんだろう。どうして僕が映らなかったんだろう。至極真っ当な疑問が頭を渦巻き、少年は学校のトイレの鏡を見てみることにした。
果たしてそこには、少女の姿があった。
「久しぶり。元気にしてた?学校はどう?」
「全然楽しくない。みんな僕を変だっていうから。そういう君こそ、どうなの?学校に通ってるの?」
「もちろん。私はあなたと同じ一年生だよ。学校、とっても楽しいもの」
自分とは正反対だな、と少年は密かに思った。学校というのは勉強をするところだと聞いていたから、もっと自分のためになるかと思ったけど、今の段階では何も感じられない。それどころか、今後小学校に通い続けて母の役に立つための兆しが見えない。それならいっそ、旅に出てしまえばマシなのではと思ってしまった。だって、勉強も意味が分からないし友達も全くできないんだから。
結局それからというものの、少年は少女に正体は何なのかと迫ったけれど、彼女ははぐらかすばかりで何も言ってくれない。名前すら教えてくれなかった。
おかげで少年は、鏡の少女と会ってから一週間が経った頃、諦めてしまった。分かることと言えば、もう自分の姿は鏡に映らないこと、全ての鏡に映るのは少女であること、そして少女はとても快活で、自分とは正反対だということくらいだった。
最初は得体のしれない彼女に少しだけ恐怖を抱いたものだけど、それも数日の間に消え去り、今や家の中にある唯一の洗面台の鏡に張り付いてしまうほど、少年と少女は会話を交わしていた。
「ドッジボールをしていたんだけど、他の子が当たりそうになったから庇ったんだ。怒られちゃった」
「それは避けてほしかったからだよ」
「給食に出たピーマン、苦手だっていう子がいたから食べてあげたら先生に怒られちゃった」
「あなたもピーマン、苦手じゃなかったっけ」
「うん、でも誰かのためになるならいいかなって」
「私もピーマン、苦手だけど。でも、本当は自分で食べた方がいいんだよ」
お母さんは何を話したって答えてくれない。いつも忙しそうで構ってくれない。だからお母さんのために早く大人になりたい。そう思っていた彼には、鏡の少女はかっこうの話し相手だった。何を話しても真剣に聞いてくれて、答えてくれる。たまに難しいことを言ってくるけど、学校よりもずっと勉強になる。
「あなたは少し、自分を犠牲にしすぎるんじゃないかな」
「……犠牲?よく分からないや」
そう言うと、少女は悲し気に眉を寄せてため息をついた。それすら、意味が分からなかった。だって、誰かの役に立てるのなら、それでいいじゃないか。例えば喧嘩で身代わりになったり、掃除当番を全部引き継ぐことになっても。
少年は自分が嫌いだ。お母さんの役に立てない、能無しの自分が嫌いだ。ぼさぼさの髪も、父によく似た顔も、どんな服も似合わない貧相な身体も、お母さんに迷惑をかけてしまう性格も嫌いだ。だからこそ、誰かのために動きたくて、でも動けない自分がさらに嫌いになる。
「君は、自分の事が好き?」
「大好き。パパもママも、大好きだよ」
「そっか。僕は、嫌いだな。お母さんにも、いつも言われる。どうしようもないクズって」
少年の母は、父親が大嫌いで、だからこそ少年の事も好きになれないと言っていた。育児放棄すれすれの育て方で、お金とご飯だけを与え続け、それ以外はほとんど干渉しない。それもこれも、少年は自分のせいだと思い込んでいた。
だから、だろうか。自分の事が好きだと言える少女が、とても羨ましくて、やっぱりちょっとだけ憎らしかった。
そうやって少年はことあるごとに鏡に問いかけ、少女との仲を深めていった。時には学校で起きたこと、母とようやく口をきいてもらえた日のこと。
代わりに少女の話も色々と聞いていた。両親とはとても仲が良く、毎日ご飯を共にするのだと。川の字になって寝ること、日曜日は公園に遊びに行くこと、今度は旅行に行くこと、その時は会えないこと。
鏡の向こうで話す彼女は、本当に夢の世界で生きているように思えて仕方がなかった。自分もそうなるには、もっと努力をして、お母さんの役に立てるようにしようと思った。そうしていつか一緒にお母さんとご飯を食べるんだ。そんなささやかな願いを心に秘めていた。
少年が相変わらず自己犠牲が激しくて、自分の事が嫌いなままで過ごしていたある日、クラスでいじめが起きた。
とはいっても、それは小学生ならではのからかいが大きく発展してしまったもので、身体の大きな子が気の弱い子を叩いてしまう、事件だった。
そこに割って入ったのが少年で、彼はいじめる子の気が収まり、それでいじめられる子が救われるならと代わりに叩かれることを望んだ。
「その子をいじめるなら僕にしてよ。僕なら、いじめられたって構わないもん」
結果、激高したいじめっ子によってそれなりに大きな事件に発展してしまい、ついには親を呼び出すことになってしまったのだった。
その時になってようやく、少年は何かが間違っていたのだと気づく。
何がいけなかったのだろう。両者の気が収まるなら、自分の存在でどうにかなるのなら、それでよかったのに、結果はいじめっ子を怒らせて母を呼び出され、酷く叱られた。仕事中の母はいつも以上に機嫌が悪く、家に帰ってからというものの何度もぶたれ、涙を流さざるを得なかった。
母が夜勤で出かけた後、少年は鏡の少女に問いかけた。
「どうしていけなかったんだろう。僕は、誰かの役に立つのなら自分がどうなっても構わないと思ったのに。それでみんなに迷惑をかけるっていうのは、どうしてだろう」
「……あなたは何も分かってないんだよ。自分を犠牲にしてはダメ。時にはそんなことも必要かもしれない。でも、そればかりじゃないんだよ。あなたは、自分をないがしろにしすぎて周りを困らせてるんだよ。もっと自分を大切にして。自分を、好きになって」
自分を好きになって。
その言葉は、今まで彼女が放った中で最も単純明快で、難しくて、理解できなかった。
自分を好きになるには、どうすればいいのだろう。そもそも、自分を好きになってどうするというのだろう。
「僕には、自分を好きになるっていうことが分からないよ」
「分からなくていいよ。今はね。でも、いずれ分かるようになるから」
「本当に?」
「うん。ねえ、よく聞いて。私が私を好きって言えるのは、皆が私を好きって言ってくれるから。私には好きなものがいっぱいあるから」
「好き、ってどういうことか分からないもん」
「あなたはピーマンが嫌いでしょう。それの反対。自分を好きになるには、たくさんの好きを作るの。好きってことは幸せってこと。幸せに包まれて初めて、あなたは自分の事を好きになれるよ」
少女の言うことは、複雑で難しかった。でも、理解したいと思った。
きっかけは、それで十分だった。
少年の好きなもの。それは何だろう、と考えて真っ先に思い浮かぶのは、母の顔だった。
母は少年を女手一つで育ててくれている。たとえお金とご飯しか与えてくれなくても、それでも母は苦労して働き、最低限の生活を少年にさせてくれている。
そうだ、母の好きな所はいっぱいある。
いつも機嫌が悪いけれど、たまに鼻歌を歌うところ。
給料日だけとっても機嫌がいいところ。
少年の前では泣かずに、必ず深夜に泣くところ。
気まぐれに美味しいお惣菜を買ってきてくれるところ。
本当は少年の事を気にかけていてくれるところ。
そして、あまり覚えていないけれど。
父と別れた時、母が涙を流しているから、僕はお母さんとずっと一緒に居るよと舌っ足らずに言うと、くちゃくちゃの顔で笑ったこと。
「そうだ。僕は、お母さんの笑った顔が好きなんだ。お母さんの笑った顔をもう一度見たい」
「私もママの笑顔は好き。じゃあ、もっとママの役に立てるようにならなきゃ」
一つ“好き”を見つけると、それは滝のように溢れてきた。
道端のたんぽぽが好き。
担任の先生の話が好き。
クラスメイトのみんなの笑い声が好き。
給食で食べたカレーが好き。
運動会の綱引きが好き。
いろいろな好きを毎日鏡の少女に報告して、少年は嬉しそうに語った。そうすると不思議なもので、いつしかその好きを守るためにどうすればいいのか考えるようになった。なんだか、世界が色づいて見える。お母さんの帰りが今日も待ち遠しい。
「今日はね、お母さんの好きだって言っていた肉じゃがを作ってみたんだ。食べてくれるかなあ」
やがて小学六年生になったころには、少年は鬱々とした雰囲気の可哀想な子から、快活で朗らかな子になっていた。
クラスでは人気者になり、自分がどう動けばみんなが喜ぶのか、いつも頭に置いていた。少年の好きは、皆の笑顔になっていた。そんな少年には、鏡に映らなくても、どんな姿なのか気にも止めなかった。そんなの、どうでもよかった。
少女も共に成長し、鏡越しに会話を続ける事数年。
いつしか少年は、鏡の中の少女に恋をしていることに気付いた。
「そろそろ、きみの名前が知りたいんだ。……もう、出会ってから数年経ってるんだよ?ダメかな」
「ううん。……ダメってわけじゃないけど。でも、今はまだその時期じゃないから」
「僕の名前も教えちゃダメなの?」
「ダメ。教えるなら同時じゃないと」
「そんなあ」
出会ってからずっとこの調子だった。先に名乗れば教えてくれるかと思ったけれど、少女はその度に邪魔をして頑なに名乗らせてくれない。まったくもって酷い人だ。好きな人の名前を知らないなんて、情けないよ。
そんなことを心中で呟くものの、少年の心配の種はそれだけではなかった。
鏡の中の少女は気だるげに頭を押さえて少しだけ俯いている。顔は少しだけ青ざめ、可愛らしい顔は歪んでいた。
「今日も体調が悪そうだね。……大丈夫?」
「大丈夫。これはもう、仕方がないことだから」
ここの所、ずっとそうだった。少女は会うたびにどこかしら不調を訴えていて、とても辛そうだった。それに加えて病気なのか、病院に行ってみてはどうかと問うと、これは運命だからと訳の分からない誤魔化し方をしてはぐらかされる。
少年は好きになることを教えてくれた少女に感謝をしている。そして、そんな少女が大好きで、だからこそ、ただ見ているだけなのが辛かった。
出来る事ならば鏡の向こうへ行って、今すぐにでも彼女の身体を抱きしめてやりたかった。背中を撫でて、傍にいてやりたかった。
なのに、いつまでも冷たい無機物が二人の間を邪魔するのは納得いかない。だけどこの鏡なしでは彼女に会う事すら叶わないのだから皮肉なものだった。
少年はそうして、少女と共に成長を遂げ、中学生になった。
そのころ、少年の努力がかなってか、肉親の母親との関係が少しだけ緩和された。いつも素っ気ない母親は、それでも毎日息子が作る料理に少しだけ早く帰って来て、食卓を共に囲むことになったのだ。少年はそれが嬉しくてたまらなくて、時には涙すら出そうだった。一方的に学校であったことを話して、テストの点数を見せて、百点を取ったんだと報告しても、ただ聞き流されるけれど、時折、思い出したかのように頑張ったわねと返って来た言葉は、いつまでも少年の宝物になる。
「僕ね、好きな人が出来たんだ。……でも、最近その子が体調悪くて、辛そうで。僕まで辛いんだ。……どうすればいいのか、分からない。僕の恩人でもあるあの子の役に立ちたいのに」
いろいろな好きを教えてくれたあの子を救いたい。そう思うのはいけない事だろうか。
食卓の間で、どうせ母に聞き流されるだろうと思って話をしていた。だがしかし、その日は違った。母が珍しく、機嫌よく口を開いたのだ。
「じゃあ聞いてみればいいんじゃない。貴方が好きなんです、だからあなたの役に立ちたいんです。どうすればいいのって」
答えが返って来たと気づいたときには、母は口をつぐみ、お皿を片付け始めている時だった。これから夜勤のため、急いで支度する母は、それでも息子の気持ちを慮ってか、ぽかんとするばかりの彼に玄関先でまた一言、言葉を残した。
「好きなら気持ちを伝えなさい。言葉にして、後悔しないようにしなさい。……私のように、後悔しないで」
母の言葉は、まるでパズルのピースのようにかちりと心にはまって、いつまでも頭に響き続けた。後悔しないように。好きなら気持ちを伝える。
それは、父との交際で失敗して、子供だけを残して去っていったあの人に対する後悔だった。母は、素直に気持ちを伝えるのがへたくそな人間だったのだ。
「ありがとう、お母さん」
少年はその日、想いを伝えると決めた。
洗面台の鏡に向かうと、映り込んだ少女は顔を真っ青にしていつも以上に体調がすぐれないようだった。それこそ、今にも倒れてしまいそうなほどに。
「大丈夫?」
「うん。気にしないで。これはそういうものだから」
「でも……」
「いいの、本当に大丈夫だから。……それよりも、何か用事があるの?」
「分かるの?」
「勿論。何年あなたと一緒に居ると思っているの?」
苦し紛れに笑う彼女は、それでも可愛かった。少年は唇を噛み締めて、これからの事をイメージトレーニングした。大丈夫。気持ちを伝えるだけだ。答えはそれからだ。まずは、想い0を伝えて、だから何か出来ることはないかと聞こう。
決意した少年は、ぐっと握り拳を作ると、鏡に身を寄せた。
「あのさ。こんな時に言うのもなんだけどね」
「なあに」
「僕は、君が好きです」
その瞬間、鏡の少女は激しく咳き込んだ。肩で息をして、涙を浮かべる彼女を見ると、本当にこんなことを言ってしまってよかったのかと不安になる。しかし、今更引き返せない。何たって、鏡越しでは言葉しか伝わらない。ならば言葉で彼女に近づくのみ。
「たぶん、もうずっと前から。君が好きだった。だから、君の役に立ちたい。ねえ、僕はどうしたら君を助けられるの?苦しそうな君を、どうやったら解放してあげられるの?」
「……そっ、か。そっか。……ありがとう」
少女は青ざめた顔を綻ばせた。そして、次に放った言葉は意外なものだった。
「なら、私の名前を教えてあげる」
「名前?」
「うん。君の名前も教えて。せーので言うからね、いい?」
突然の事に少年は戸惑ったが、ようやく好きな人の名前を知れると思ったら、それはそれで嬉しくて、その瞬間が待ち遠しい。少年は今か今かと期待に溢れさせ、少女が一拍置いて口を開く。
「せーの」
「「沢城夕貴」」
その瞬間、時間が止まったようだった。
鏡の中で笑う少女も、窓の外で流れる雲も、部屋の中で動いているはずの時計も。何もかもが止まっているかのように思えた。それくらい、少年の頭は混乱していた。
「同じ、名前……?」
「そう。沢城夕貴。私と、あなたの名前」
「ど、どうして。ねえ!」
こんな偶然、あるのだろうか。まさかずっと同じ名前と知らずに生きていたなんて。もしかして彼女は少年の名前を知っていたからこそ、明かさなかったのだろうか。
「あなたは、私が好きって言ったね。ありがとう。とっても嬉しい。でもね、私は、貴方と恋ができないの」
「どう、して」
「私は、あなただから」
その言葉と同時に、少女はその場から崩れ落ちた。しかしそれでも、彼女は必死に鏡に映ろうともがき、少年に語り掛ける。やめてほしい。今すぐ病院に行ってほしい。だけど、同時にこうも思う。きっと少女は自分の知らない何かを知っている。それを、知りたい、とも。
「パラレルワールドって、分かる?」
「漫画で読んだことある」
「そう、それなら話が早いね。つまり、私は貴方のパラレルワールドなの。沢城夕貴が女で、尚且つ愛されて育ち、自分が好きになった場合、それが私」
「そんな。まさか」
「信じられない?でも、鏡に自分の姿が映らない代わりに私が映るのは、鏡を通してあなたのパラレルワールドを見ているから。私は、あなたなんだよ。あなたは、自分に好きって言ったの」
少年は混乱した頭で、少女を見つめた。鏡に触れても、当然彼女には触れられない。冷たい感触が少年を刺激するだけで、彼女の体調を慮ることはとうにできない。どうして。
「ねえ、沢城夕貴くん。あなたは、自分が好き?」
「そんなの、決まってるよ、好き」
そう言って、ハッとした。目の前に映る少女の姿は、幼い頃、自分が嫌いで嫌いで仕方がなくて、自己犠牲の激しかった頃にそっくりだったのだ。
むしろ、今までどうして気づかなかったのか疑問にすら感じる。艶やかだった髪はぼさぼさで、脂肪なんてどこにと問いたくなるほどやせ細った身体。可愛らしい顔は今やみすぼらしくて、親はどうしているんだと問いたくなるほどだ。
まるで、自分の幼い頃を見ているようだった。
「それが、答えだよ。あなたは、自分が好きなんだ。私は、沢城夕貴くんが自分自身を好きになってほしくて現れたんだから」
「体調が悪そうなのは?もしかして」
「そうだよ。あなたが自分を好きになるほど、私は必要がなくなって、鏡に映ることが出来なくなる。それでも無理やり映り込んでいたんだから、体調が悪くなって当然だよね」
自嘲気味に笑う彼女は、とても幸せそうに見えなかった。少年はやるせなさを覚えて、鏡を殴る。拳がじんじんと痛んで、だけど、その痛みは彼女のものに比べれば何てことなかった。
彼女は、自分のために幼い頃、現れて、ここまで救ってくれた。結果、彼女はこんなになってしまった。そんなの、どうしろというのだ。
「ねえ、僕はどうすればいいの。……君を救うことは、出来ないの」
「出来るよ」
「どうすればいいの!」
それはほとんど、叫び声に近かった。この感情が恋ではなくて、自身に対するものだとしても、彼女を救えるのならば、そうしたかった。母と話が出来るようになったのも、必要以上に自己犠牲をしなくなったのも、友達が出来たのも、全て彼女のおかげなのだから。
「自分を、好きなままでいて。沢城夕貴は、胸を張って、自分が好きですと言える人のままで居て。それが、私を救う唯一の方法」
「当たり前だろ、僕は君が好きなんだ!自分が好きだ!そのままでいられるよ!」
「そう。それなら、良かった」
少女は安心してため息をつくと、ずっと頭を押さえていた手を離し、なけなしの力を振り絞って正面を向く。なんだかそれが、最後の挨拶のように思えた少年は、少女に倣って正面を向き、見つめ合う。
「それが、あなたの正しい姿だから。もう、私は必要ないね」
「それじゃあ、もう」
「うん。会うことはないよ。大丈夫。体調が悪いのは鏡の前だけだから。私は私で、元気に生きていくよ。……じゃあね、沢城夕貴くん」
「……沢城夕貴ちゃん」
「「さようなら。お元気で」」
気づけば鏡に映るのは、本当の自分の姿だった。数年ぶりに見る鏡越しの自分の姿は、幼い頃嫌いだったはずなのに、なんだか今はとても輝かしく見える。
それから何分も鏡を見つめ続けたけど、女の子の姿なんてどこにも映らなくて、沢城夕貴という人間が、ただただいるだけ。
それがなんだか無性に嬉しくて、彼は鏡に向かって微笑んだ。
ありがとう。精一杯の気持ちを込めて呟いたその言葉が、向こうの彼女にも届いていることを願って、彼は洗面台を後にした。
鏡にはもう二度と、少女の姿は映らなかった。