五年前の炎
わたしは呆然としてその場に立ち尽くしていたけれど、はっと気づいて慌てて携帯を取り出した。
そこではたと固まる。
どこに電話しようというんだろう。
まだ、このにおいの原因が放火なのかどうかもわかっていないのに。もしかしたら、誰かが季節はずれの焚き火をしているのかもしれない。
――その可能性が著しく低いことは、わたしにだってわかっているけれど。
風に乗って届く厭なにおいが、強くなったように感じる。
火は、怖い。
けれどこのまま帰ることはできそうにない。
わたしは携帯を握ったまま、ノブのあとを追って、彼が走り去ったほうへと駆け出した。
煙は見えない。大きな火の手が上がっている様子もない。
わたしは幾分安堵しながら、ノブの姿を捜して走る。
と、視界の端にオレンジ色の光が微かに映った。
目を凝らすと、池沿いの小道から分かれた道の先、芝生広場の手前に設置されているゴミ箱の中に、炎が見えた。
それを見た途端、わたしの足はまるでその場に縫いつけられたように動かなくなった。
燃え盛る炎に襲われたあの日以来、わたしは火が怖くなってしまった。
マッチなどのちょっとした火にすら近寄れない。
だから、ゴミ箱のすぐ傍に長身の人影があることに気づいても、それ以上近づくことができなかった。
声をかけようにも、息が切れて大きな声が出ない。
ノブの姿をじっと見つめながら、ふと疑問が湧き上がった。
ノブはなんのためにここまで走ってきたのだろう。
放火犯なら真っ先に逃げるはずだ。
火の傍に佇んで、いったいなにをしようとしてるの?
炎に照らされたノブの横顔が見える。そしてその口が大きく開かれるのがわかった。
直後、ゴミ箱の中の炎が勢いを増したように見えた。
炎が、ノブに襲いかかる。
「いや――――ッ!!」
火事の記憶が甦る。真っ赤な炎の幻覚が見える。
足もとがぐらぐらと揺れ始めたかと思うと、突然、視界が暗転した。
五年前のあの日、わたしは二階の廊下で炎を前に立ちすくんでいた。
一階から、煙と炎が恐ろしい勢いで上ってきていた。
煙が目にしみて涙がボロボロとこぼれる。
咳は止まらず、家の中に満ちた熱風がわたしの肌を焦がしていた。
一階の寝室で寝ていたはずの両親のもとに行きたかったけれど、階段を下りることはもはや不可能だった。
絶望が煙とともにわたしを包み込もうとしていた、その時。
『カナ!』
誰かに名前を呼ばれたような気がして、わたしは視線を巡らせた。
意識が朦朧としていたけれど、必死で声の主を捜した。
そして見つけたのは、ふたつのつぶらな瞳だった。
小学校からの帰りに公園で見かけた大きなリスが、ドアの開け放たれたわたしの部屋の前に立って、こちらを見ていた。
なんでこんな場所に?
と思うのと、ごおっという激しい音が背後で聞こえるのが、ほぼ同時だった。
振り向くと、わたしを呑み込もうとする炎が、すぐそこに迫っていた。
『いや―――――ッ!!』
心の中で叫ぶわたしと炎のあいだに、小さな黒い影が割り込んだのがわかった。
次の瞬間、その黒い影は、迫る炎をものすごい勢いで吸い込んだ。
まるで掃除機かなにかのように。
『これだけの炎、全部は食えない。今のうちに、外へ』
後ろ肢で立ち、振り返ったリスが言う。
リスがしゃべったことに驚きながらも、できない、とわたしは首を振った。
『部屋の窓まで行ければいい。あとは俺がなんとかする。大丈夫だ』
リスの後ろには、迫り来る新たな炎が見えた。
わたしはその炎から逃げるように、床を這いながら自分の部屋へ戻った。
そして窓辺にたどり着いた時、わたしのあとから炎を吸い込みながらついてきていたリスの体が、突然大きくなった。もとは猫くらいの大きさだったものが、今では大型犬ほどもある。
そして広げた手と足のあいだには、マントのような膜があった。
『背中に乗れ。ここから飛ぶ』
わたしは無我夢中でその背に捕まった。
そしてその大きなリスは、わたしを乗せて窓からふわりと飛び立った。
気がついた時、わたしは病院にいた。
救急隊員の人の話では、少年がわたしを助けてくれたのだということだった。
けれどその少年はすぐに姿を消してしまったらしい。
空飛ぶリスの背に乗って脱出したという話は、誰にも信じてもらえなかった。




