優しい彩(いろ)
_________あの日から、私は空っぽになった。
安易に言えば、なんと例えれば良いのだろう。
人形、といれば良いのか。
「千佳、行ってこようね」
私は、"妹"に声をかけた。
けれどもその目の焦点も、視線や目線が合う事はない。
あの日から目が合う事は無い。そう思い知らされたと共に
私は彼女が空っぽだと思い知った。
平島 千佳。
それがこの名前だ。彼女は、私の生きる目的であり糧だった。
千佳は全盲だ。目が見えない。
そんな闇の中で生きる彼女の意識は、"あの日"に
残ったまま、その日から時間の動きを止めているだけだ。
そう思い込む事にして、私、平島 詩歌は、
たった一人の妹・千佳と向き合う事にした。
千佳は、傍らに置いていた白杖を持つと立ち上がった。
そんな私は千佳の手を取って、家を後にする。
カツンカツン、と白杖と地面が当たり音を残す。
私がこの子の手を離した事はない。繋いだ手は離さない様に、
離れない様に強く握っている。私自身が離したくなくて
そう意識しているのだけれど。
少しでも、外界に触れさせてあげたい。
何時もは我が家である洋館からあまり出る事のないこの子に。
千佳はただ私の手と白杖を頼りに歩いているだけで、
ただ茫然とした目で、前を見詰めているだけだった。
季節は変わっていく。
毎日の天気も、年も時間も時に美しく、時に滑稽に。
太陽の温かさ。晴れの日和、雨の音。風の吹く兆しも日に寄ってはまちまちで変わる。
生きている限りそれを感じる事は出来る筈。私はそう思っている。
冷たい閉ざされた地下よりも、広い世界は自然に溢れている。
蝉が鳴き続ける暖かい季節も、空から淡い結晶が降ってくる冷たい季節も。
滑稽ながらも平和な優しい世界の世の中は、沢山の事で満ち溢れている。
だから私は、ずっと遠くにいる彼女の意識に感じて欲しい。
少しでいい。ゆっくりと、何時か届いてくれれば良いと思っている。
いくら時間がかかっても構わない。
"彼女"が戻るまで、私はずっと待ち続けているのだから。
彼女が戻るまでいるのが、それが私の役目だった。
けれど私は、
これが自分の自己満足に過ぎないと考えて気付いていた。
自分の利己的な感情で彼女を振り回しているのではないかと、
不安に思ってはそれを掻き消して、千佳に向き合う事で紛らわす。
「此処に椅子があるわ。座って」
「…………………」
木陰のベンチ。
少し散歩して歩いたから、休憩しよう。
そう案じると 手を繋いだまま、千佳は手探りでベンチの椅子
無垢な木に手で触れた後、回る様にして腰掛けた。
彼女はただ、前を見詰めている。
普段、千佳は喋らない。ずっとその口も、言葉も閉ざされている。
退院して療養に入ってから、彼女の声を聞いた事が無いのが本心だ。
失声症等ではないらしい。
ただ彼女の思考が、時間が、止まっているだけだ。
___千佳。貴女は、今。なにを考えているのかしら。
出来れば、昔の様に色々と教えて欲しい。知りたい。
でもいいの。喋りたくなった時に沢山 お話してくれれば良いからね。
私はこの子に付き添って居れば良い。
この子の目となり寄り添い続けて居られるのが、私の望み。
それ以外は何も望みはしない。
何事もなく平穏に、過ごせれば良いのだ。
けれど時折に不安なる。このまま千佳が消えてしまうのでは。
何時か、私がこの子を置いてしまう日が来るのか。
そんな不安な毎日に自分の絶望に背を向けながら、私は生きていた。
けれど、周りは強く現実を押し付けてくる。
*
千佳が視力を失ったのは、1年前、19才の時だった。
不慮の交通事故。
無免許の少年が運転する暴走車に轢かれ、
彼女は自分の視力と両親と姉を失ったのだ。
家族は皆、即死。千佳自身も瀕死に近かったが、俄かに残っている生命力により、
その息を吹き返し、この世界に戻ってきた。
けれど。
その代償は、大きかった。
純粋無垢な少女は、家族を失い、視力を失い。
そして何より彼女の精神と心の時間は、事故の瞬間で止まってしまった。
医師は、“少女の魂が抜けてしまった”のだと呟いていた。
周りの人間も皆、千佳の姿に頷く様にしてそう認めた。
けれど、たった一人だけ。それを強く否定したのは、
紛れもなく“従姉の私”だけだった。
そうだ。
私は、彼女の姉・平島詩歌ではない。
私は平島家と深い交流と親戚の仲だった旧華族の家元・藤崎家の娘。
次期後継者でもある、一人娘・藤崎歌音だった。
身寄りの失くなった千佳は、親戚宅であり私の実家である
藤崎家に引き取られる事になる。それは私の望みだった。
私が言ったのだ。千佳を引き取って欲しいと。
それは次期後継者の権限。
いずれは家元を継ぐ身の権限と要望は優先される。
私は藤崎家の令嬢として後継ぎだった権力を使ったのだ。
千佳は、止まってしまっただけ。
事故の衝撃が激しかったから、時を止めて休んでいるだけだ。
そう思うのは私だけだった。周りは否定する人も居て、最も厳格な父や祖父からは考えが幼稚だと怒られた。
でも良い。私の心は決まっていた。
___________きっかけは、千佳が言ったあの言葉が。
『__お姉様は、生きていたのね。良かった』
千佳が意識が戻った時、最初にそう言った。
どうやら、記憶喪失と闇の中に居て混濁してしまった結果らしい。
両親は亡くなったが、姉は生き残ったと。
そう彼女自身は解釈していた。
今思えばそう思う事で自分が闇に佇む事になった
その事実も、それで現実を受け入れたのだろう。
それが、彼女の姉・平島詩歌だったのだ。
『うん。大丈夫。私がずっと傍にいるからね』
そう闇に怯える彼女の手を握る。
私はその瞬間から、平島詩歌になる事を決めた。
当然 周りは反対した。個々の人間がましてや他人になることは出来ないと。
けれど現当主である私の母だけは曖昧だった。
母は昔から強く心優しく、私の意見を尊重してくれる人だった。
「__藤崎の跡継ぎは貴女です。
貴女自身が、自分のやりたいという事を決めなさい」
母だけだった、私の受け入れてくれたのは。
そんな藤崎の現当主であり母に、ある"悲願の条件"をぶつけて
それが成立したと共に、人里離れた所で静養する事が認められたのだ。
それで、今に至る。
もうこの暮らしになって随分と経ったけれど。
千佳は、私を詩歌だと思い込んでいる。
たまにくるお医者様は、彼女の精神回復は望めないと言った。
あの瞬間から止まって時間は動き出そうとしないのだ。
前に進まないまま止まっている。
大事なのは、静養させること。
それで良い。バレないままこのまま平和な暮らしが続いてくれれば。
寧ろ、千佳と暮らす様になって私は自由な気分と身になっていた。
名の残る家元の一人娘。小さいから家元の跡継ぎとされ
習い事や藤崎家の嗜みに邁進する日々。
完璧だけが求められ、妥協も油断も、許されはしない。
*
「歌音ちゃん。大丈夫よ」
「………………」
千佳とは、昔からの友人同士だった。
物心着いた頃には、家元の交流がある。
けれど大人ばかり親戚同士の集まりでは唯一子供であったから
平島詩歌と私が同い年で、千佳は一つ年下。仲良くなるのに時間は要らず。
私から見れば、千佳は妹の様だった。
彼女は本当に明るくて活発で心優しく、強い子。
次期後継者としては真っ当な臆病者の私を、色々と助けてくれるばかり。
だから事故に遭って意識不明だと知った時、生の心地がせずにいた私。
助かったと聞いた時は真っ先に病院に向かい、そして彼女が失明したという事実に衝撃が走ったのは
昨日のように覚えている。
助けてもらうばかりだった私は、
そんな彼女に、心の片隅で強い憧れと尊敬を抱いていたと同時に
彼女に恩返しがしたいというのを、果たす時は今と思い知った。
今度は私が恩返しする番なのだ。あの頃、千佳が助けてくれたように。
___________それに、私にも、時間がない。
今日は日差しの強い、晴天だった。
けれど、今日は風が強かった。
千佳は風を怖がる。
それだけは、幼い頃から変わらなかった。
長い付き合いからか千佳の風への恐怖は、何も言わなくても分かる。
何時も無情な振る舞いの中でも、特に風の強い日は怖がるのだ。
だから今日は家で過ごすことにした。
白い光りの注ぐ優しい世界。
風に揺られた透明なカーテンがふわりとと、優しく舞う。
防音壁の施された部屋で、ただ千佳は隅の椅子に座っている。
その整った容貌もあってか、端から見れば本当にお人形さんが飾られているみたいで。
けれど、時折に吹く独特な風の音にが耳に届くと
その顔には少しながらの怯えが浮かんでいた。
そんな風の予感を軽くし
千佳を少しでも安心させる為に、私はバイオリンを弾いていた。
例え届かないとしても、
彼女に聞こえているのならば、それだけで良い。
彼女が昔、好きだと言っていた曲。それをなるべく優しい音響で演奏する。
たったひとつ、私に出来ること。
それを、貴女に届くように。
*
今日は、母と主治医に呼び出されていた。
主治医と言っても、千佳の訪問医の先生ではない。
私の主治医である藤崎家の専属の先生だった。
『癌は進行しています。もう手の施しようがないわ』
___________私の余命は、一ヶ月。
母は悲観した。先生も、残念そうだった。
けれど。
自分の事なのに、不思議となんとも思わなかった。
私は、昔から体が弱かった。
最初自分の体に、脳に腫瘍があると宣告されたのは、6歳の時。
放射線治療や抗ガン剤を投与。そんな長期の懸命な治療に寄って
私の癌は完治した。
けれど。時は残酷で。
2年前、また脳に腫瘍が見つかったと言われた。
恐れていた再発。種類は言わずとも悪性で
周りは癌を切除出来るのならば、手術を望んだが
腫瘍は取れない所にあると宣告され、既に癌は末期だった。
そして何よりも
残酷な程に癌の進行は早く、私の体の臓器にほぼ全身転移していたのだ。
家元には、周りの方には言わないで、と信頼を寄せる母と主治医には言いお願いをした後まで、私は予め告げた。
もう延命の望みはない。だったら。
治療を止めて欲しいと。
後の余生はゆっくり過ごさせて欲しいと。
だから、恩返しの為に千佳に寄り添う事を決めて、暮らしてきた。
そして最終的には、
私の目を、千佳に、角膜提供を_______。
知っていた。
千佳の目は、角膜移植すれば治るのだと。
藤崎家の力を使ってドナーを捜していたけれども、
そんな簡単に見付かる筈がない。
だったら、私の目をあげて。私がドナーになる。
あれから随分と季節も変わった様に街や世界の景色も変わった。
私が消える代わりに
千佳に、光りを戻してあげて。
ドナー登録は、既に済ませていた。
私の目を、千佳に移植するようにと。
「千佳、これからね。
親戚の家に住む事になったの。広いお家よ」
「…………………」
そう言って、千佳の手を握った。
本当は、このままで居たかったけれど、もう
癌の転移と進行によって、私は日常生活もままならなくなったので藤崎家に帰ることになってしまった。
そんな事情にごめんねとしか言えない。
千佳は、変わらず無反応だった。
けれど。これで、貴女に恩返し出来る。たった一人の貴女に。
今までの暮らしは私の自己満足でしかなかったとしても、
これから贈る残酷な我が儘は、本当の恩返しができるの。
時間は、要らなかった。
藤崎家に帰った後、私の容態は急激に悪化してしまったのだ。
若さが進行を早くするというのは、本当か知らないけれど。
私の体は、動かなくなった。
癌に蝕まれた末期の体は、どうすることも出来なくて。
そしてそのまま、私は、永遠の眠りに着いた。
(___ごめんなさい)
「___________詩歌は……?」
声を発したのは、何時ぶりだろうか。
身近に居て世話をしてくれる家政婦に、彼女はそう言った。
目の前に横たわる闇の中でも最近、彼女の存在を感じられず、
声も聞いていないことに気付いたからだ。
声が聞きたい。
あれだけ傍に居てくれていた姉が、居なくなった。
どうして?
茫然としている娘に、家政婦は、戸惑った。
藤崎家の娘からは固く口止めされているので、言葉にする事は出来ない。
迷った末に言った家政婦の言葉は______。
「お姉様は少し、おやすみしているだけですよ」
End
最後までお読み下さりありがとうございました。
そして色々と、申し訳ありません。
支離滅裂かつなトントン拍子な展開はすみません。
これからのお話は、読んで下さった読者様にお任せします。
ただ、加筆する可能性はあるかもしれません。
2018..6.18.
HJ大賞2018に、応募に従い
物語を加筆・訂正を致しました。
ストーリーの内容は変わらず、言葉の表現の訂正のみですが
読手様によっては、変わった様に思われると思います。
申し訳ありません。
よろしくお願い致します。