7 婚儀
十一月、駿府館から千の人が甲斐に向けて旅だった。
今川義元の娘である朱雀が、武田晴信(信玄)の嫡男義に嫁ぐための甲斐に向けての行列だった。
このうち百名ほどの女官や武士は、朱雀の世話をするためそのまま甲斐に留まることとなる。
駿河と甲斐の間には富士の山がそびえている。
甲斐に残る者達は、もう二度と駿河から見た富士を見れないかもしれないのだ。
そうした故郷への別れを感じさせる空気のせいか、本来はめでたいはずの輿入れの行列はどこか物悲しさを漂わせていた。
朱雀は氏真と一つしか違わない、僅か十四の少女である。戦国の慣わしとはいえ、十四歳の少女の肩に今川と武田、両国の平和がかかっていると思うと、氏真の胸も痛む。
「甲斐と駿河は隣国だ。駿河の魚が食べたくなったら、俺に文を寄越せ。すぐにでも駿河の新鮮な魚を届けてやる」
「ありがとうございます、兄上。ですが……」
駕籠の引き戸を開けて、朱雀は首を傾げた。
「何故、兄上が供をしているのですか?」
朱雀の輿入れに際し、義元は行列の指揮を朝比奈泰能に命じた。
今川家の二大重臣の一人を使者にすることで、武田家に対して今川家が今回の輿入れを大事に思っていることを示す為だ。
その朝比奈隊の中に紛れるように、氏真の姿があった。
「大切な妹を見送りたい兄心。そう言えば納得するか?」
「いいえ。確かに兄上は私にお優しいですが、それだけで婚礼の儀まで
付いてくるのはおかしいですわ。それに、なんでしたっけ? 兄上の今のお名前は?」
「品川高久。今川家の庶流という形で、泰能の副使だ」
このことを知っているのは、義元と雪斎、それに正使の朝比奈泰能と朱雀、供をする山本勘助や滝川一益だけだ。
妹の婚儀の列に加わり甲斐を見てみたい。
氏真の希望に、義元は「猿しか住まぬ山国に行きたいとは、物好きなことだ」と答え、息子の行動を黙認した。
「品川殿は妹の婚儀にかこつけて、甲斐の様子を自身の目で確かめたいのでしょう」
朱雀は小さく笑った。
「義信は果報者だな。そなたのような利発な娘を妻に出来るとは」
氏真は妹の問いかけに答えを濁したが、まさに氏真の目的は甲斐の実情を知ることであった。
もっとも、妹を心配する気持もある。
氏真が知る歴史では、義信と妹の仲は睦まじかったが、義元死後、晴信が駿河への野心を剥き出しにした結果、二人は引き裂かれ、妹は今川家に帰された。
その後、妹がどのような運命を辿ったのが、氏真は知らなかった。何故なら、今川家自体がその後滅亡するのだから。
氏真が考えるに、今川家の滅亡には二つの転機があった。
一つは桶狭間の戦い。この戦いで義元と主立った重臣が討ち死にし、今川家の勢力は大きく後退した。その後の徳川家康の独立や相次ぐ豪族の反乱も防げないほどに。
もう一つは武田家の同盟破棄と侵略だ。今川と武田の戦いは、今川家の方が数の上では武田を上回る兵を揃えたにも関わらず、裏切りや逃亡が絶えず、兵の統率が取れぬまま武田に大敗した。
戦国時代の戦は何より将の器量が物を言う。信濃を統一し上杉と激戦を繰り広げてきた武田晴信と、父親の仇討ちはおろか領内をまとめることもできない今川氏真では戦にならなかったのだ。
勿論、氏真はその歴史を繰り返すつもりなどない。桶狭間を防ぎ、あわよくばこちらから同盟を破棄して甲斐に攻め入り武田を滅ぼしてやるつもりであった。
その為には、甲斐の国の実情を、武田晴信とその配下を知らねばならぬ。
そう決意し、氏真は妹の婚儀に同行することで、自身の眼で武田の内情を確認するつもりでいた。
だが、それは妹には関係の無い話。
甲斐に向かう度の間、氏真は政や軍事などの血生臭い話は避け、幼い頃に一緒に遊んだ思いで話や、駿河の食べ物、あるいは源氏物語について妹と取り留めのない話に終始した。
駿河を経ってから五日後、婚儀の一行は甲斐の躑躅ヶ崎館に到着した。
行列の正使である朝比奈泰能と副使である品川高久(今川氏真)は旅の埃を落とした後、武田晴信と対面することとなった。
武田晴信はこの年三十二歳。義元より二歳年下である。
大名としての晴信は『有能な働き者』の一言に尽きる。甲斐という小国の大名でありながら、自国の数倍を領土である信濃をほぼ侵略した戦上手である。 氏真はでっぷりとした人物を想像していたのだが、この時の晴信はまだ若く出家していないせいか、中肉中背の普通の人物であった。
ただ両目に宿す力強い光は、まるで肉食獣のようであり、強い意志が窺える。
「来年中には信濃全土を我が領土にしてみせる。その後は越後へ進むことになろう。海を持つ今川殿が羨ましいわ」
「越後の長尾は家督を継いだばかり。国内も未だ安定せぬとのこと。精鋭揃いの武田軍なら、越後を取るのも容易でしょう」
「うむ。だが、武田が北上出来るのも、今川という盟友がいるからこそ。今後とも、良い関係を築きたいものだ」
「その為の婚儀にございます。朱雀姫は駿府の御館様と武田様の姉君の血を引くだけあり、非常に聡明な御方です。きっと良縁になると存じます」
晴信と正使である泰能は儀礼的な会話を交わしたが、副使である氏真は終始無言で晴信を見つめていた。
「あれでよろしかったのですか。結局、若君……いえ、品川殿は武田殿と一言もお話しになりませんでしたが」
晴信との対面を終え、宿舎に戻ると泰能が氏真に尋ねた。
「話をせずとも、佇まいを見ればおおよその人となりは分かる。武田殿は肉を欲する獣だ。信濃という美味い土地の味に満足していると思いきや、次は越後とは。止まるところを知らぬ欲望よ」
この時点で晴信が知る由もないが、越後の若き国主・長尾景虎は後に戦国一の名将と唄われる人物である。
さて、越後を攻略できない武田は、次に何処の土地を狙うのか。上野か美濃か、それとも駿河か。
氏真は皮肉気な笑みを浮かべた。
躑躅ヶ崎館では、武田の嫡男太郎義信と今川の姫朱雀の婚儀が行われていた。
この時代、身分の高い者の婚儀は何日も続き、祝う。
祝宴の席で、今川方の使者である泰能や氏真の元には次々と武田の重臣が酒を注ぎにくる。義信の傅役である飯富虎昌、その弟の飯富源四郎(後の山県昌景)、鬼美濃こと馬場信春、晴信の小姓上がりの春日源五郎。
(国の豊かさは今川だが、兵の強さと将の器は武田の方が優れているか)
婚礼の主役である武田義信は元服したばかりで、まだ少年の面影を残している。義信は顔を火照らせながら、妻となる朱雀に何か囁いていた。
ひとまず義信は朱雀を気に入ったようだ。まあ、容姿も性格も良い三国一の花嫁なのだから気に入るのは当然だな。
そんな身内贔屓なことを考えていた氏真の杯に、また誰かが酒を注いだ。
「品川高久と申したな」
「……っ、これは。武田様自ら酒を注いでいただけるとは。駿河で皆に自慢できまする」
いつの間に、氏真の前に晴信が座っていた。
「そうか。ところで、品川よ。今川殿の嫡男、氏真殿は義信と同じ年と聞いたが?」
「左様ですが」
「どのような人物なのだ?」
「……若殿は書物を読むのが好きな御方です。『孫子』を好む甲斐様とは話が合うかもしれません」
「儂は今川の嫡男は、書物を好むだけの『文弱の徒』だと思っていたが、案外と度胸があるようだ。聞いたところによると、身分を偽り、自ら他国の内情を探ったりしているらしい」
「……私は存じておりませんが、その話が真なら、若君は中々の勇者ですな」
「うむ。武田と今川は盟友だ。品川よ、仮に氏真殿が甲斐の情勢を知りたいというのであれば、鼠のようにこそこそとするのではなく、堂々と来るがよいと伝えよ。甲斐の兵の強さ、存分に見せてくれるわ。……どうした、品川、手が止まっておるぞ。さあ、飲め。甲斐の酒は旨かろう。そう言えば、氏真殿はあまり酒が得意ではないと聞いておるぞ」
晴信は何もかも承知しているといった表情で、更に氏真の杯に酒を注いだ。
氏真は元服したばかりの十五歳の少年である。
多量の酒を無理矢理飲まされた氏真は厠で何度も嘔吐し、水を飲んで酔いを醒ましていた。
「武田晴信は、俺の正体を知った上で嬲ってくれたわ。勘助、どう思う?」
「若君がこの度の使者に加わることを知っているのは十人もおらず、その中に情報を外に漏らすような愚か者はおりません」
「となれば、これが噂の武田の忍びの力という訳か。同盟国である駿河の情勢にこれだけ詳しいのなら、他国の情勢はどこまで掴んでいるやら。一益」
「はっ」
「甲斐の百姓の暮らしはどうだった?」
「想像以上に酷いものでした。百姓は老人や女は皆痩せ細っており、年貢は兵役などを果たさなければ八公二民だとか。信濃からの米がなければ暮らしが成り立たない、駿河とは比べ物にならないほど貧しい国です」
「古来より、貧しい国ほど兵は強いという。甲斐の国はやはり手強いな」
「……若殿は、将来武田家と今川家が戦火を交える可能性とがあるというのですか? 嫡男である義信公に当家から朱雀姫が輿入れしたのですぞ」
「かつて今川と北条は、武田と今川以上に太い絆で結ばれていたが、今は敵対している。情勢により、国の方針ががらりと変わる。それが戦国の世だ」
一益の常識論を勘助は一蹴した。
「まあ、よい。今すぐに両家の関係が破綻するという話ではない。折角の朱雀の婚儀だ。この話はもう終わりにするぞ」
計算高い晴信のことだ、義元が健在である限り、今川家に攻め入るようなことはあるまい。
史実では義元死後、晴信は親今川の義信を廃嫡し、妹は離縁され駿河に送り返された。
妹が甲斐で幸せに暮らせるよう、何としても桶狭間を防がねばならぬ。
氏真はそう決心しつつ、厠で吐いた。
桶狭間の戦いの八年前のことである。