6 外交
今川義元は今年で三十四歳となる。
織田信長に敗れた、お歯黒の公家かぶれ、馬にも乗れない肥満した人物というイメージがあるが、氏真の目の前に座るこの人物からはそのような様子は微塵もない。
恰幅の良い体格と冷たい目を持ち容易に人を信じない独裁者、それが氏真の父、義元であった。
異母兄を討ち今川家の当主となり、敵対していた武田から正室を迎えて同盟を結ぶと、東は北条、西は織田と争いつつ三河を征服し、今川家の最盛期を築いた人物である。
桶狭間では武運なく信長に討たれたが、極めて優れた戦国大名であった。
「そちも元服したからには、当家の武将の一員。今後、当家がどう動くべきか、意見を申してみよ」
義元は、元服した息子がどの程度の見識を持っているのか知りたかった。
元服前までの龍王丸は子供とは時々子供とは思えぬ意見を述べ、太原雪斎を唸らせていた。
だが、子供の頃は神童と呼ばれていても、成長すれば凡人になる者もいれば、物事を頭の中だけで考え現実に対応出来る能力を欠くような大人になる者もいる。
自分の後を継ぐ氏真の器量によって、今後今川家が取る道も変わってくるだろう。
昨年病で死去した宿敵織田信秀の息子信長は『うつけ』と評判で、家中の者達からは信を失っているという。
西進には望ましいことだが、同じように自身が急死したら今川はどうなるのか。
果たして氏真は今川家を守ることが出来るのか。
それが現在義元が一番関心を持っている事柄であった。
義元の問いに、氏真は
「武田義信殿に、朱雀を嫁がせるお考えに変わりませんか?」
氏真は妹の婚儀について話し出した。
「うむ。そちらの母が身罷り、当家と武田の縁は切れてしまったのでな。再び武田との縁を結ぶため、朱雀は義信に嫁がせる」
先年病により亡くなった義元の正室は、武田晴信(後の信玄)の姉であり、氏真や妹の朱雀は晴信の甥と姪にあたる。
「父上は、武田晴信をどこまでお信じになっているのでしょうか?」
「……どういう意味か?」
「武田晴信は実の父を追放し、妹の嫁ぎ先である諏訪家を滅ぼし、滅ぼした諏訪の娘を側室にするような男です。当家が隙を見せれば、間違いなく兵を進めてくるでしょう。そのような家に妹を嫁がせること、私は賛同しかねます」
「信濃侵略に忙しい晴信が、当家と事を構えるとは思えぬが……」
氏真の叔父批判に、義元は顔色を変えることなく淡々と答えた。
「その一方で、当家は北条と争っております。ですが北条と当家は元来、武田などとは比べ物にならない程、深い縁で結ばれております。これと争うのは如何でありましょうか?」
北条家の始祖、北条早雲の妹は義元の祖母に当たり、早雲は客将として今川家の安定に力を尽くし、また今川家も早雲が戦国大名となる手助けをしてきた。更に北条家の当主、北条氏康の妻は義元の妹である。
北条家と今川家の関係が悪化したのは、義元が武田家と結んでからだ。
「つまり、そちは武田ではなく北条と結ぶべきだと言うのか?」
義元とは正反対の外交であり、少なくと義元の頭にはそのような考えはなかった。
「いえ、武田と縁を切る必要はないと思います。ですが、晴信の野心を牽制し、かつ我が国の安定を図るためには、北条とも盟約を結ぶべきかとは考えます」
「虫の良い話だな。武田と北条、両家と和議を結ぶなど、人の手に余る難事だぞ」
「はい。ですが、北条と和を結ばなければ、三河を安定させることは難しいかと。三河の地は織田も狙ってますが故」
「信秀は昨年死に、後を継いだ信長はうつけとの評判ぞ。織田はもはや敵ではない。三河は手に入れたも同然である。まあよい、そちの考えは分かった。今日はそれで十分だ。そのうち初陣もあろう。励め」
少なくとも息子は阿呆ではないらしい。ひとまずは合格か。
義元は表情を緩めること無く氏真を下がらせた。
氏真が義元の前から退出し、館の廊下を歩いていると、反対側から歩いてきた少年と目が合った。
「お、若じゃねえか。相変わらず陰気くさい顔しているな」
「この顔は生まれつきだ。そういう泰朝は、相変わらず元気そうだな」
「おうよ。なにせ初陣をすませたからな。次の戦いに向けて気合十分だぜ」
朝比奈泰朝は、今川家の宿老、朝比奈泰能の息子である。
年が同じということもあり、氏真と泰朝は幼少の頃からの遊び仲である。但し氏真は書物を好み、泰朝は武芸を好むなど、その資質は真逆である。現代風に言えば、体育会系と文化系のようなものだろう。
「次の戦いか……。織田信秀亡き今、三河を完全に治める契機ではあるが」
「若、三河なんて小さいこと言うなよ。信秀のいない今、尾張も切り取り次第だぜ」
「そうかな? 信秀の後を継いだ信長、あれは油断ならんぞ」
氏真の言葉に泰朝は首を振った。
「信長が本当に『うつけ』かどうかは知らないが、家中での人気はまるでない。何より俺達と四つしか違わない若造だ。尾張を掌握するには時間がかかるだろうよ」
泰朝の言葉に氏真は頷く。信長の支配体制が脆弱な今こそ、尾張に攻め入るべきだろう。
その為には、武田、北条との三国同盟が必要だが、さてこの世界では『三国同盟』はどうなるのか。
「まあいい。泰朝、折角の機会だ。お主の初陣話を聞かせてもらいたい」
「そうか。だったら、長照と正純と竹千代も呼ぶか。久々に皆で騒ぎたいな」
長照とは鵜殿長照、正純とは由比正純、竹千代とは後の徳川家康のことである。
後に彼等は今川の将として武名を馳せることとなるが、それはまた別の話。
「ああ、そうしよう。時に泰朝、お主朱雀と結婚する気はないか?」
「はあ? 若、正気か? 朱雀様は同盟の証として武田家に輿入れするんだろう?」
「うむ。だが、兄としては妹を甲斐の山猿の元へ嫁がせるのは不憫でな。その点泰朝なら気心も知れてるし、何があっても朱雀を守ってくれそうだ。朝比奈一門の総力を挙げて、朱雀を嫁に欲しいと父上に訴えてみてくれぬか?」
「……雪斎老ならまだしも、俺達の言葉など大殿が聞くかよ。そんなに朱雀様が心配なら、一緒に付いて行って甲斐の様子を見てきたらどうだ?」
泰朝の冗談に、氏真は虚を突かれたような表情を浮かべると、
「成る程。それも一理ある」
と頷いた。
「えっ!? いやいや若。冗談だぞ? 何処の国に妹が心配で他国まで付いていく兄貴がいるんだよ! おーい、聞いてるか!?」
泰朝の声が聞こえているのかいないのか、氏真は名案とばかりに頷いていた。