5 元服
天文二十一年(1552年)、駿府館にて十五歳になった龍王丸は元服し、今川彦五郎氏真となった。
氏真の元服の儀には、今川家の武官文官、京から駿河に避難していた多くの貴族、更には同盟国の武田や属国の松平からも人が集まり、今川家の強大さを印象づける場にもなった。
そうした中、氏真はとくに緊張した様子もなく、つつがなく元服の議を終えた。
「これを機に、氏真に二俣城と三万石の領地を与える。兵を養い、功名を挙げよ」
「はは。父上の期待に応えられるように励みます」
義元の声に氏真は平伏して答えた。
「さて、ようやく城と領地が手に入った。これでやっと動き出せる」
自室に戻った氏真は勘助を呼び寄せ、今後の方針について話し合った。
「俺の手腕では三万石の土地からは三万石の兵しか生み出せん。行政に詳しい者を早急に探し出し、三万石で六万石の兵を雇えるようにしたい」
一万石ではおよそ二百五十人の兵が養える。
つまり氏真は、七百五十人ではなく千五百人の兵を養いたいと言っているのだ。
勘助が答える。
「それがしを始め、およそ武士というのは戦に自信のある者は多いでしょうが、行政となるとなかなか得意な者はいないのが現状です」
「武士が駄目なら商人を雇えば良い。彼等は武士と違い、利を産み出すことに長けているからな。
さて、勘助。俺は早急に家臣団を作らなければならぬが、将はお主一人しかおらぬ。誰がめぼしいものはおらぬか?」
「一人おりますが、素行にいささか問題がございまして?」
「ほう。兄嫁でも寝取ったか?」
氏真の言葉は漢の陳平をネタにした冗談である。
が、勘助は笑うことなく、
「実はその通りで。更には博打を好んで借金を重ね、喧嘩で叔父を殺害し、故郷を追われた男でございます。ですが、それらの行為にはきちんとした理由があり、悪党という訳ではございません。
何より武略に優れ、鉄砲の腕もかなりのもの。働き場さえ与えれば、相当の武功を挙げることは間違いないありません」
「ならば問題なかろう。人として最低であっても、何か一つ秀でたものがあるならば配下に加えたい。至急、手配せよ」
「既に駿府に呼んでおりますので、明日には出仕できましょう」
自分が領土を貰ったら、すぐに家臣を集めるよう命じることを読んでいたか。
さすが山本勘助だ。
「それと勘助、今日からそちを侍大将に任じる。これからも俺を助けてくれ」
侍大将は今川家の評定には出席することはできないが、戦場に置いては一軍の指揮を取ることができる身分である。
「勿体なき沙汰。今後とも若殿のため、務めさせて頂きます」
今川家は家臣の順列に厳しい家である。
これは足利将軍家に連なる名門大名としての自負と、規律を重んじる義元の性格がそのような家風を作っていた。
今川家の家臣の順列は、宿老・家老・武将・侍大将・足軽大将となる。
宿老は評定に出席でき、当主の名代として軍の指揮を取り、場合によっては一国の支配を任せられることもある。
家老は評定に出席でき、当主の名代として軍の指揮を取り、城主に任じられることもある。
部将は評定に出席でき、部隊を指揮できる。
侍大将は評定に出席できないが、部隊を指揮できる。
足軽大将は評定に出席できないが、小部隊を指揮できる。
そしてこの順列とは別に、一門衆と馬廻という役割がある。
一門衆は文字通り、今川家に連なる者達である。その者の功績や能力によって差はあるが、概ね宿老と家老の間の地位である。
馬廻りは、主君の側に控える親衛隊のようなもので、主君の命を各人に伝えたり、主君に代わり仕事を代行する者達である。馬廻りは重臣の息子や才気溢れる若者など、主君の側で薫陶を受け、次代を担うことを期待されている。
現在の今川家の家臣団を表すと、次のようになる。
大名……今川義元
宿老……太原雪斎、朝比奈泰能、三浦正俊
家老……松井宗信、三浦 義就、葛山氏元
部将……井伊直盛、安倍元真、庵原忠胤、飯尾連竜、由比正信、その他
侍大将……岡部元信、天野景貫、山本勘助、その他
足軽大将……その他大勢
一門衆……今川氏真、瀬名氏俊、関口氏広、鵜殿長持、浅井政敏
馬廻……朝比奈泰朝、鵜殿長照、由比正純、山田景隆、その他
この顔ぶれを見た氏真が「地味だ」と内心で呟いた。
この中で後世において評価されているのは、太原雪斎と朝比奈泰朝、岡部元信ぐらいしかいない。
織田四天王や武田二十四将、徳川十六将に較べてなんと地味な家臣団であろうか。しかも、その中で経験豊富な将は殆どが桶狭間で討ち死にし、以後今川家は衰退の道を転げ落ちることとなる。
これを打破するためにも、氏真は人材を、特に信長に仕える人材を浪人している間に奪い取るという策を実行しようとしていた。そうすれば、今川は強化され、織田は弱体化が進む。正に一石二鳥の策だ。
なお、氏真は一門衆であり、義元の嫡男であるので、身分は宿老とほぼ同等である。その氏真の権限を持ってすれば、山本勘助を評定に参加できる武将に就けることは可能だが、それでは他の家臣の嫉妬を買い、今後勘助が働きにくくなる。そう考えて、氏真は勘助を侍大将に任じた。
氏真としては勘助をもっと高い地位に当てたいのだが、当の勘助は自身の地位など気にしていなかった。勘助は自分の才を戦国の世で試してみたいという欲求しかなく、また氏真ならまだしも義元の下で出世をしようとは考えてもいなかったのである。
翌日、勘助は一人の浪人を伴って、氏真の元を訪れた。
浪人は二十代半ば、眼光鋭く威厳があり、一軍の指揮を任せられそうな雰囲気を持っていた。
「名を何と申す?」
「甲賀が生まれ、滝川一益と申します」
滝川一益!
戦に優れ、「退くも滝川、進むも滝川」と言われた織田四天王の一人である。このような大物が網にかかるとは。
氏真は勘助が作った間諜組織の実力を再認識した。
「勘助から話は聞いている。およそ戦において不得意は無く、また鉄砲の名手であるそうだな」
「はい。戦しか能の無い男でございます」
一益の声は淡々としていた。自分を売り込むといった姿勢が見えず、自分の器量を見抜ける人物にしか仕えない、そういった雰囲気を感じさせる人物だった。
「今川は西に織田、東に北条という強敵を抱えているので、そちのような男は喉から手が出るほどほしい。今の俺では足軽大将でしか召し抱えられぬが、戦功を挙げればそれに見合う待遇を与えることは約束する。どうだ、一益。是非俺に仕えてはくれぬか?」
「自分は兄嫁を犯し、叔父を殺したような男です。そのような男を召し抱えるおつもりですか?」
「兄嫁の件は冤罪であろう。また叔父殺しは、そなたの器量を妬んで暗殺しようとした叔父に反撃した結果であろう。博打の借金に関しては、そなたが出世し、その金で返せば良い。何も問題は無いぞ」
一益は驚いたように目を見開いた。
「自分が召し抱える者についてはそれなりに調べておる。そこにおる勘助は優秀なのでな。それにこれからは僅かな金を賭けての博打より、もっと大きな博打を打つことになるのだ。楽しみだとは思わんか?」
「大きな博打……。それは一体何でございましょう?」
興味を惹かれた様子の一益に、氏真は宣言する。
「今川家を使って、天下に挑む大博打よ!」