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氏真の野望  作者: 羽市
天文十七年(1548年)
5/13

4 生い立ち

 龍王丸の生活は穏やかなものであった。

 元服もしてない十一歳の少年である。

 やるべき政務がある訳でもないし、戦に借り出される訳でもない。

 史実の氏真はこの時間を蹴鞠や和歌に費やし、公家のような文化を身に付けたのだろう。

 が、この世界の龍王丸は、史実とは違う時を過ごしていた。

 午前はもっぱら読書に費やす。兵法や政治についての中国の書籍は勿論、源氏物語のような恋愛物語や太平記のような軍記物と、書物であれば何でも読み、疑問があれば雪斎や勘助、寿桂尼といった大人達に尋ねてまわった。

 午後になると、年の近い朝比奈、岡部、由比、鵜殿といった近習達と石合戦や鷹狩りをして遊んだ。この幼年期の幼友達が、その後の氏真を支える一つの柱となる。なお、この遊び仲間には松平竹千代、後の徳川家康も加わっていた。

 この頃、松平竹千代は松平家から今川家への従属の証、人質として駿府に置かれていたが、龍王丸はこの四歳年下の少年を弟のように可愛がっていた。これは竹千代の負けん気の強さを気にいっていたこともあるが、竹千代を優遇し、将来事が起きた際には今川家に忠節を尽くしてほしいという打算もあった。

 

 学問の師や友人達には恵まれていた龍王丸ではあったが、家族とはどうであったか。

 龍王丸は四人兄弟の長男であることは先に述べた。

 妹二人、一つ年下の朱雀とは特に仲が良かった、朱雀は幼いながらも聡明で気や優しく、それでいて芯が強い少女であった。

 この朱雀が武田との同盟のためとはいえ、将来甲斐に嫁ぐことになるとは。

 遠くない将来のことを考え、龍王丸は憂鬱になる。 

 龍王丸と朱雀は乳母や寿桂尼の手を借りながら、六歳の弟夜叉丸と四歳の妹御影の面倒を見ていた。

 これには、龍王丸の母親の身体が弱く、特に子供を産んでからは床に伏せることが多くなった為である。母親は武田信虎の娘であり、武田晴信(信玄)の姉である。

 つまり龍王丸は武田晴信の甥であり、源氏の名門武田家と足利一族である今川家の血をひいていることになる。

「足利将軍家が衰えた今、若殿は新しい武家の統領を継ぐに相応しい血統でございます」

 とは山本勘助の言葉である。

 病弱な母親に変わって龍王丸を養育したのは、祖母寿桂尼であった。 寿桂尼は祖父である八代当主今川氏親が中風で倒れると夫を補佐して国政に携わり、氏親が死去し、息子の氏輝が幼少の身で家督を相続すると後見人として全権を握った。

 現在の今川家は、当主である義元が壮健であり、それを補佐するのは雪斎という形が出来上がっている為、寿桂尼が国政に携わることはない。その代わりに、孫の面倒を見ながら、龍王丸にせがまれるがまま昔話をするのが日課になっていた。

 この様に、日々を平和に過ごしている龍王丸にとって、最大の悩みは父である義元であった。


 今川義元という人物は、軍事より政略を得意とする。

 氏親が定めた今川氏の分国法、『今川仮名目録』を修正し、国作りの指針を法に求めた。また頻繁に検地を行い領土の掌握に務めると共に、商人を保護し、海運業や金山経営にも力を注いだ。

 その一方、軍事に関しては自身にその才がないのを悟っていたのか、殆どを雪斎に丸投げしていた。そして雪斎もその期待に応え、西は織田、東は北条を相手に勝利を重ねていた。

 だが、その雪斎も『桶狭間』の戦い頃には病死している。

『桶狭間の戦い』に動員された兵力は、今川軍二万五千に対して織田軍は三千から五千といわれている。にも関わらず、今川は大敗し、義元は討ち死にした。或いは雪斎が生きていれば、桶狭間の戦いは違う結果となっていただろうと言われる所以である。

 では何故、雪斎亡き後、義元は自ら采配を振るったのか。

 あくまで龍王丸の推測だが、義元は雪斎以外の家臣は、所詮優秀な駒でしかないと思っている節がある。朝比奈や岡部は猛将だが大将の器ではなく、三浦は城の留守役が精々、ましてやそれ以外の家臣など取るに足りない。そして味方は大軍である。定石通りに手を打てば負けるはずもない。その驕りが、義元をして自ら大将と成り、首を取られる結果を招いたのではないだろうか。

 ある日のこと、龍王丸は山本勘助と軍略について話し合った。 

「昔から『大軍に軍略なし』というな」

「はい。戦は刀を交える前から勝敗は決しております。相手より多くの兵を集め、兵站を確保し、事前に相手に調略を仕掛け、有利な戦場で戦うこと。これで殆どの戦は勝てるでしょうし、今川にはそういった戦を行うだけの力があります」

「三河での織田信秀との戦もそうやって勝ちを拾った訳だが。勘助よ、三河尾張を今川の物にするのに、何年かかると思う?」

「三河に関しては松平を始めとして主だった豪族が今川に忠誠を誓っております。後二、三年もすれば、三河全土は今川領になりましょう」

 山本勘助が龍王丸から独自の諜報機関を作るよう命じられてから三年。勘助の配下である山伏や忍びは三十名ほどである。勘助はそれらを三河と尾張の諜報に当たらせていた。

「尾張はどうだ?」

「今の尾張の実力者は織田信秀です。治めている領土も家柄も今川と比べ物になりません。ですが、この御仁は津島という商業都市をがっちりと抑えています。その為、一万の兵を動員でき、兵の指揮にも長けております。そう簡単に滅ぼせる相手ではありません」

 実のところ、龍王丸の歴史知識には曖昧な点が多い。

 例えば桶狭間の戦いが何年に起こったのか?

 織田信秀と太原雪斎はどちらが先に死ぬのか?

 武田信玄はいつ頃駿河に侵攻してくるのか?

 はっきりと分からない事柄が多すぎる。

 なので、今は自分に出来ること。即ち、有為な人材を無名なうちに配下に招くこと。これを第一に考えていた。

 後年、氏真は『人の力量を見抜く眼を持っている』と評判になるが、何のことはない、ただ自分が知っている有名武将を片っ端から配下に加えただけのことだ。

「今川が総力を挙げれば二万の兵を動員できる。それを老師が率いれば、いかに織田が戦上手でも勝ちは揺るぎないと思うが?」

「二万の兵を尾張に向ければ、好機とばかりに北条が駿河に侵攻してきましょう。現実的ではありません」

「うむ。兵法書にも多方面作戦の愚が説かれていたな。この場合、織田と北条、当家はどちらと和を結べばよいか?」

「北条ですな。今は関係が悪化しているとはいえ、かつては今川と北条は兄弟のような間柄でした。現に、北条氏康公の奥方は、義元公の妹君。更に北条の関心は関東の平定にあります。今川と北条は共存できるでしょう」

「うむ。『河越夜戦』で勝利したとはいえ、まだまだ北条も敵が多い。北条も今川と手を組めば、後顧の憂いもなく関東平定に乗り出せるのだがな」

 悲しいかな。いくらこの場で良い考えを思いつこうとも、元服前の小僧の言葉など、義元は取り上げもしないだろう。

「後三年か四年。元服するまでの辛抱だ。勘助、そちは引き続き尾張三河の情勢と、有為な人材の発掘に全力を尽くせ」

「はっ」


 桶狭間の戦いまで、後十二年のことである。


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