2 勘助
京輔が龍王丸となり、八年が過ぎた。
この間、時が経つにつれて、今自分がいる戦国時代こそが現実であるような変化が京輔には起こっていた。
人から「龍王丸」と呼ばれれば違和感なく返事をし、現代日本から見ると質素な食事にも適応していた。
いつの間にか彼は沖野京輔ではなく、今川龍王丸という別の人物に成り代わっていたのだった。
龍王丸の傅役は三浦正俊という武将である。
傅役とは、実の親に代わる育ての親であり、有力な家臣から選ばれる。有名な人物として織田信長の傅役である平手政秀、武田義信における飯富虎昌が挙げられる。
三浦一族は朝日奈一族と並ぶ今川家の重臣であり、三浦正俊は三浦一族の当主である。
家柄という面では今川家嫡男である龍王丸あるものの、能力はまた別物であった。
同じ重臣である朝比奈元長や朝比奈泰能の方が武将としての力量は優れている。が、義元としてはそのような優秀な武将は戦場で用いており、彼等を子守りに使う気は無かった。
そこで重臣ではあるが、武将としての器量はさほどでもない正俊を傅役に当てることになった。
正俊は義元より年長であり、武将としての器量はないが、実直な人物であった。もし氏真の身に危険が迫れば、自身の命を捨てても氏真を守るだろう。
そういう人柄を買われて、正俊は傅役に任じられた。
しかしながら、そうした正俊から教わる軍略や武芸は、龍王丸を満足させるものではなかった。何せ、精神年齢は実際の年齢より遙かに上なのだから。
結局、武家の礼儀作法は正俊から教わり、軍略に関しては自身で中国の古典である『孫子』や『貞観政要』、『李衛公問対』といった書物を紐解き、自身で学んだ。そして疑問点があればその都度、太原雪斎に聞きに行く。
「若君の在り方は、八歳の少年とはとても思えません。これは将来が楽しみですな」
雪斎は龍王丸の姿に、今川家の更なる繁栄を期待するようになっていた。
さて、雪斎は今川家中で一番多忙な身と言ってもだろう。義元の軍師であり、自ら一軍を率いて戦場に赴いたかと思うと、甲冑を脱いで僧衣をまとい外交僧として弁舌を振るう。さらに義元から領国経営について意見を求められたかと思うと、実際に農村に赴き作物の収穫量を見聞する。
そんな雪斎であるので、龍王丸が書物を読んで疑問に思ったことがあっても、直に疑問を問うのは難しかった。
ある日、珍しく身体の空いた雪斎は、龍王丸の私室に呼ばれることとなった。
「老師は幾つになったのだ?」
「五十でございます」
「敦盛にも『人間五十年』という言葉がある。そろそろ後を託す者を育てて、楽をしてもよいのではないか?」
「お心遣い感謝致します。ですが、拙僧はこの身を今川家に捧げた身。まだまだ働かせて頂きます」
龍王丸の言葉は雪斎への気遣いの他に、別の意味を含んでいた。やがて起こるであろう『桶狭間の戦い』。この戦いで義元と重臣達は討ち取られ、今川家は衰退の道を転がり落ちることとなる。
もし雪斎が『桶狭間の戦い』までに病没せず、義元に同行していたら、義元は首級を挙げられることはなかったのではないか。歴史を知る者ならば、一度はそう仮定する。
その為にも、雪斎には健康に留意してほしいのだが、このような話、雪斎が取り合うはずもないだろう。
龍王丸は話を転じた。
「時に老師よ。『貞観政要』にしても『李衛公問対』にしても、読むだけではどうにも分からぬ。実例を示してこそ、学問は身につくものだろう。このままでは俺は知識はあっても実践は知らぬ、物の役に立たない男になるやもしれぬ」
「若君はまだ八つにございます。元服した後、戦場や政に関わることで、書物から得た知識が役立ちましょう」
「うむ。……しかしだ、ただ書物を読みながら武芸に励み元服を待つというのも芸がない。そこで老師に一つお願いがある。軍略に詳しい人物を紹介して頂きたい」
「軍略ですか?」
「軍略は第一だが、その他の知識も持っている人物が欲しい。老師は父上が幼い頃からの学問の師であったのだろう? 俺にもそうした人物がほしいのだ。……将来のためにな」
雪斎はしばし思案していたが、
「一人心当たりがございます。軍略は勿論、築城にも明るく、諸国の情報にも詳しい浪人ですが」
「浪人? それ程の人物を、何故父上は召し抱えぬ?」
「その男は家柄がはっきりいたしませぬ。また、容貌は醜く、隻眼であり、足が不自由な男でございます。これまでどの家にも仕えたことが無く、確たる実績もございません。知れ故、御館様は召し抱えませんでした」
「ほう? 異相の男か? それは面白い。その男は今何処におる?」
「拙僧の甥である庵原忠胤の屋敷に滞在しております。折を見て拙僧から御館様に召し抱えるようお願いしているのですが、どうにも上手くいきません」
「それは当然なことだ。どうやら老師にも分からぬ事があるらしい」
そう言うと、龍王丸は笑った。
声変わりしていない甲高い声が、この少年がまだ八つであることを雪斎に思い出させた。
「その男が当家に見切りを付ける前に会いたい。して、名を何という?」
「山本勘助と申します」
勘助は呆然としたまま、駿府館の離れに向かった。
太原雪斎から、「至急登城せよ」との文が届いたからである。
慌てて登城すると、勘助は離れの屋敷に案内された。
今まで今川家に仕えたいと何度も願ったが、ことごとく失敗していた。最早今川家での仕官を諦め、他国へ流浪しようとしていた矢先の出来事である。
案内された部屋には、二人の人物が座っていた。
一人は勘助に登城するよう文を寄越した雪斎。
もう一人は上座に座り、自分を興味深そうに見つめる少年であった。
やはり義元公への仕官が叶うわけでなないのか。
勘助は落胆したが、顔色に変化はなかった。彼は既に失望することに慣れきっていたのだから。
しかし、この少年は何者だ?
雪斎が控えていることから察するに、今川家に連なる者か重臣の子息といったところか。
勘助は平伏すると、「山本勘助でございます」と名乗った。
「面をあげよ。顔をよく見たい」
儂の醜い顔を見て笑いものにする気が。
少年の声に勘助は怒りを覚えつつ、顔を上げ少年を睨み付けた。
勘助は幼い頃疱瘡にかかった名残で顔中に出来物があり、右目は潰れ、頬には矢傷まで追っている。常人であれば目を背けたくなるような顔であった。
少年は勘助の顔をじっと見つめた後、
「成る程、異相よな。唐の国には常人と違う相を持つ者は、その才も常人とは違うという言い伝えがある」
勘助の予想に反して、少年は勘助の顔を嘲笑しなかった。
寧ろ、少年は勘助という人間に興味を持っているのか、身を乗り出すと、
「勘助とやら、そちは軍略に明るいか?」
と訊ねてきた。
「勿論。でなければ仕官を願い出たりはいたしません」
「雪斎の話では諸国の情勢に通じておるとのことだが、どの国をまわってきた?」
「北は奥州、南は九州まで」
「ならば、どの大名家が日の本を統一いたす?」
「はっ?」
「北から南まで各国を見たのだろう? ならば幕府に変わって、誰が日の本を統一いたすと聞いている」
「それは……」
勘助は絶句した。彼は諸国を旅して大名の情勢には詳しかったが、どの大名も隣国を攻めるか領地を守ることしか考えていない。戦国自体はそれが当たり前なのだ。
なのにこの少年は、幕府に変わり日の本を治めるのは誰かと問うている。
そのようなこと、勘助自身も考えたことはなかった。
「……現時点では、そのような大名はおりませぬ」
あまりに平凡な答えに、勘助は自身に失望した。
だが少年は勘助の問いに頷くと、
「そちは築城にも明るいと聞くが真か?」
別の話を問いかけた。
いったいどれ程時間が過ぎたのだろう。少年は次々と勘助に問いかけてきた。孫子の兵法の注釈などという答えられる質問もあれば、鉄砲の製造方法や南蛮人の説く基督教に関する質問もあった。当然そうした質問の中には勘助が答えに窮するものもあったが、少年は矢継ぎ早に勘助に問うた。
いつのまにか日は暮れて、部屋には灯りが点されている。
「お主の見識は確かに優れておるな。雪斎の言うとおりだ」
少年はようやく勘助から視線を外し、雪斎に「これほどの男を隠していたとは。老師も人が悪い」と笑った。
「勘助よ。まだ名乗ってなかったな。俺の名は今川龍王丸。今川義元の嫡男だ」
「こ、これは失礼致しました」
今川家に連なる子供ではないかと予想していたが、まさか嫡男とは。
勘助は慌てて平伏するが、
「構わん。そのままでよい。さて、勘助。そちほど優れた人材を、何故我が父は召し抱えぬか分かるか?」
「……それがしの顔が醜く、風采がみすぼらしいからでございましょう」
今までもそれが理由で仕官を断られてきたのだ。
「他家はいざ知らず、父上はそなたの風貌が気に入らないからといって、仕官をさせぬ訳ではないぞ」
「では、何故故にこざいますか?」
「勘助。そちが欲するのは軍師の地位であろう。だが、そこには既に老師が座っておるのだ。父上と老師は僧のときは師弟であり、現在は主従の関係にある。そして父上にとっては、老師以外の配下は駒で十分なのだ」
「……駒、ですか?」
「そうだ。政治・軍事・外交。今川家の全ては父上と老師のみが考え、他の者はその意に添って動く。二人が決めた事柄には異を唱えない。それが今川家だ」
「……」
「勘助。確かにそちは優れた軍師になるやもしれん。だが、今川家の軍師は老師一人で十分。それが父上のお考えなのだ」
「恐れながら、雪斎様もご高齢。万が一の事態が起きたら如何するのです!?」
「そちと老師は大して年が違わぬがな」
龍王丸は笑うと、
「その時は父上がお一人で今川家の行く先を決めるだろう。豪族に支持された神輿ではなく、唐の国の皇帝のような自身で全てを決める君主になりたいのだよ、父上は」
八歳の少年とは思えない意見を口にした。
「……それでは、今川家にそれがしの席はないと言うわけですな」
勘助はすっきりとした表情で呟いた。
龍王丸の言葉が義元の意見であるかは分からない。
だが、少なくとも自分の才は評価されている。そう考えた方が気が楽になる。
今川家とは縁が無かったか。ならば、武田が北条にでも行ってみるか。
そう勘助が次の行き先を考えていると、
「話はまだ終わってないぞ、勘助」
龍王丸が勘助を見つめていた。
「山本勘助。そなた、俺に仕える気はあるか?」
「……はっ? 今、何と?」
「俺に仕える気はあるかと聞いておる。父上には老師という軍師がいるが、俺に軍師はいない。それに父上に仕えるのも俺に仕えるのも、今川家に仕えるという意味では同じだろう? 勘助、そなた年は幾つだ?」
「四十五でございます」
「年はとっているが、見たところ、あと五年十年でくたばるような顔ではないぞ。そなたはまだこの世にやり残したことがある顔をしておる。俺が元服した後、俺を利用し、そなたのやりのこした仕事をするがよい」
「……やり残した、仕事……」
そうだ。俺がこれまで書を読み諸国を旅してきたのは何のためだ。この世に自分の名を残すためではないか!
それにこの少年はまだ八つ。十年後にどのような武将へ成長するのか。いや、自らの手で成長させるのだ! 日の本の国を統一するような武将へと!
「この山本勘助、これより先、今川龍王丸様の家臣として尽くすことを誓います」
勘助は平伏した。
「うむ。よろしく頼むぞ、勘助」
この時、今川龍王丸(後の氏真)は八歳。
対して山本勘助は四十五歳。
ここに親子ほど年の離れた主従が誕生した。