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氏真の野望  作者: 羽市
天文二十三年(1553年) 
13/13

12 互いに知らない

「何を考えておいでです、父上?」

 ぼんやりと庭を眺めていた父に、雪乃(ゆきの)は声をかけた。

「……そなたの嫁ぎ先についてだ」

 雪乃の父、『相模の獅子』と称される関東の主・北条氏康は、憂鬱そうに溜息を吐いた。

「そなたが男子なら、迷わず儂の跡を継がせただろう。女子ならば三国一の婿をと思っていたのだが……。よりにもよって『駿河の阿呆』に嫁にやると思うと無念でな」

 その生涯において十五人の子に恵まれた氏康だが、尤も可愛がったのが雪乃である。容姿は人並みであるが、常に笑顔を絶やさず、その聡明さは多くの兄妹達の中でも群を抜き、慎み深く、善良であり、私欲が乏しい。

 雪乃はこの年、氏真より一つ下の十六歳である。そして母は今川義元の姉であるので、氏真にとっては従妹でもある。

「……駿河に赴くのが悲しくないと言えば嘘になります。父上や母上、兄や弟妹と別れ、生まれ育った相模の地を離れるのですから」

 そこで雪乃は言葉を切ると、黒く澄んだ瞳を父に向ける。

「我が北条は『民が戦乱に晒されず、のどかに暮らせる国』を目指して、今日まで領土を広げて参りました。三国同盟が成れば、北条は背後を憂うことなく関東から東を平定できます。そして今川が東海から西を治めれば、この国から戦乱はなくなりましょう」

「……今川が領地を広げたからといって、民を思う治世を敷くとは限らんぞ?」

 娘の語る広大な夢物語に、氏康が冷水を浴びせる。

 が、雪乃は微笑を浮かべたまま、

「今川の若殿には色々な風評がありますが、実像は分かりません。もし本当に『阿呆』でしたら、私が生涯を賭けて、よき領主となるよう励みます。

 それに本来なら、今川と北条は兄弟のようなもの。兄弟が力を合わせれば天下を治めることが出来るのは鎌倉と室町が証明しております」

 と語った。 

 北条家の始祖早雲は、元々は室町幕府の官吏であった。それが駿河に下り、今川家の内紛を収め甥の今川氏親(義元の父)に家督を継がせた功により領地を与えられたのが北条家の成り立ちである。その後、今川は西に、北条は東へと領土を広げたが、その間両国の友誼は長く保たれた。それが破られたのは義元が甲斐の武田と結んでからである。

「その縁を元に戻す為ならば、私は喜んで駿河へ参ります」

 そう語る娘を見て氏康は、

「やはり、そちは『駿河の阿呆』の嫁にはもったいない娘だ」

 またも溜息を吐いた。


 父との対話を終え、自室に戻った雪乃は、一人の侍女を呼んだ。

「ご苦労様でした、(はく)。道中、危険はありませんでしたか?」

「勿体なきお言葉」

 白と呼ばれた少女は頭を下げる。

 雪乃と同じ位の年頃の少女であった。

 雪乃は自ら飲み物を用意し、白に勧める。

「それで駿河の様子は如何でしたか?」

「はい。流石は今川の国府です。店や町人は小田原よりも多く、市も賑わっておりました。ですが、ちょっとした騒ぎが起こりまして……」

「騒ぎ? 氏真公が襲われたというお話ですか?」

「はい」

「巷では、遊女を斬ろうして返り討ちにされたとか、罪人を火炙りにして見世物として楽しんでいたら火事に遭ったなどと噂されていますね」

 実のところ、雪乃はその噂を信じてはいない。

 本当に氏真がそのような人物なら流石に嫡子を廃されているだろうし、あの太原雪斎の教えを受けている。

 果たして、自分の夫となる今川氏真とはどんな人物なのだろう。

 それを知りたくて、雪乃は白を駿河に遣わしたのだ。

 白は元々は北条お抱えの忍者集団『風魔』の一員であるが、氏康が娘の警護の為、雪乃の侍女として側に置いた者であった。彼女は代々北条に仕える忍を輩出してきた家の出で、幼少の頃から北条家への忠義を教え込まれ育った。更に、元来真面目な性格もあり、北条家と雪乃に絶対な忠誠を誓っている。

「噂は事実でしたか?」

「……いいえ。どうやら氏真公は、妓楼で遊興に耽っていたところを刺客に襲われたようでございます」

「そう。それなら安心ね」

「何を仰いますか! 氏真公は一国の嫡子であちながら、忍んで遊興に耽り、無様にも不覚を取ったのですぞ。武士として、姫の夫になる男として、実に情けない限りです」 

 敬愛する雪乃が、氏真のような凡夫に嫁ぐことが我慢できないらしく、白は激しく氏真を罵った。

「白。氏真公が罪なき領民を害したり、力に物を言わせて女性を慰み者にしたのなら、私とて嫌悪します。ですが、城ではなく街で、忍んで遊興に耽るというなら、まだ分別があると言う物です」

「しかし、姫様!」

「それに……」

 雪乃は悪戯っぽく笑うと、

「父上にも言いましたが、私が生涯を賭けて、氏真殿がよき領主となるよう支えましょう。それにこれは天下が平和になる第一歩なのです。今川、北条、武田が手を取り合えば、日の本の国から争いがなくなるかもしれません。その為にも、氏真公に嫁ぎます。まさに、女冥利に尽きる婚儀ではありませんか?」


 その頃、雪乃の夫になる氏真は、駿河の寿桂尼の屋敷で療養生活を送っていた。

 幸いなことに火傷は浅く、肌に跡は残りそうにない。

 だが、手足の骨折は未だ直らず、出歩くことが困難な為、一日の大半を氏真は寿桂尼の屋敷で過ごした。

 十二歳になる弟の夜叉丸の武芸の腕を見学し、十歳の妹御影のままごとに付き合い、祖母の寿桂尼から今川家の歴史について改めて話を聞く。

 その姿は夜遊び好きの阿呆な若殿ではなく、家族が好きな平凡な青年にしか見えなかった。

 

 駿河に滞在していると、二俣に居るときとは比べ物にならないほど客人がやってくる。

 今川家中一の勇将岡部元信(おかべ もとつな)は、静養している氏真に対して、主君にあるまじき軽はずみな行為は慎むよう延々と説教を受けた。また、朝比奈泰能や松井宗信といった重臣達は、氏真を見舞いながらも、今後は軽率な行いは慎むよう諫言した。

 それらの訴えに、氏真はこの男らしくなく謙虚に頷いた。

 そうした氏真の姿勢を知った家中からは、

「まるでお人が変わったようじゃ」

「流石の若殿も反省したと見える」 

 と、噂をされるようになった。

 実のところ、氏真の思想の芯の部分、家柄や仕えた年数を誇るだけの家臣や豪族を粛正し、他国者や仕えた年数の浅くとも能力のある者を要職に就けようという考えに変わりはない。

 だが、今の自分は嫡男であって大名ではないのだ。

 自分の思想を形にするのは、大名になってからでも遅くはない。

 そんな氏真の心境を見抜いているのか、見舞いに訪れた太原雪斎だけは他の者と様子が違っていた。

 雪斎は、義元の腹心であり、駿河の摂政であり、氏真の学問の師である。今回の氏真の失態について叱責できる立場であるが、雪斎はそうした話は一切しなかった。

「若殿は魏の武帝(曹操)や唐の太宗(李世民)がお好きなようですが、拙僧の我が儘を申すなら、若殿には後漢の光武帝(劉秀)になって頂きたいですな」

 雪斎が名を上げた三人はいずれも中国史上における名君であるが、欠点もあった。

 曹操は時に理性より感情を優先させ、人命を損なうことがあった。

 李世民は皇太子であった兄を弑逆し、皇帝である父から帝位を奪った。

 その二人に較べ劉秀は、天下を統一した後に功臣を一人も粛正せず、武による統一から文による統治へ移行させた名君である。欠点と言えば、くだらない冗談を好み、妻から駄目出しされたこと位だろう。

「つまり老師は、俺が当主となった際、選り好みをせず家臣を使えと言っているのだろう」

「理想的な主君ですな」

「うむ。まず無理だろうがな」

 氏真は山本勘助に、雪斎が見舞いに訪れた際の話を聞かせていた。

「して勘助。小田原の方はどうだ?」

「はっ。遣いに出していた藤吉郎からの報告では、氏康公のご息女、雪乃姫の評判は非常に宜しいとのこと。家臣や領民には思いやりを持って接し、大大名のご息女という立場に驕ることなく、若殿の評判を聞いても呆れることなく、寧ろ積極的に輿入れの準備を進めているとのこと」

「そうか……。北条とは末永く友好的な関係を築きたい。その為には、夫婦の中が円満なのが一番だからな」

「おそれながら、雪乃姫の方に問題はありますまい。問題があるとすれば、若殿の所業ですぞ。

 およそ君主において、当初はその賢明さを謳われる者は多いですが、最後まで名君でいられる者はごく僅かです。唐の国の例を引くことなくとも、才能はあれど自制が利かず暗君となった君主の実に多いこと。

 駿河にも、戦が上手くとも己の感情を制御できず、君主を追われた人物がおりますぞ」

「信虎公か。アレは一応、俺の祖父だからな。ご様子は相変わらずか?」

「はい。毎日馬を責め、酒と女を欠かさぬ生活とのこと。酒が入れば、晴信公を罵る毎日のようで」

「元気なことだ……。して、小田原に遣った藤吉郎はどうだった?」

「非常に頭と舌が回る男ですな。今回のような諜報にはうってつけの人材です。槍働きは期待出来そうにありませんが、教育次第では中々の将に育つでしょう」

「そうか。勘助、引き続き藤吉郎はそちに預ける。擦り切れるまで使ってやれ」

「御意」

 藤吉郎とは、木下藤吉郎、後の豊臣秀吉のことである。

 藤吉郎は元々遠江の松下之綱(まつした ゆきつな)の家臣であったが、氏真が之綱に頼み譲り受けた者である。

 実のところ、氏真は藤吉郎を家臣にするかどうか迷っていた。

 氏真は自信過剰な面があるが、それでも自分があの豊臣秀吉に勝る才を持ってると自惚れてはいない。

 藤吉郎は英雄である。

 信長の跡を継ぎ、天下を統一した英雄。

 そして英雄とは即ち悪党のことでもある。

 信長死後、主君の天下を盗み、主君の遺児を自害させ、主君の娘を側室にした畜生。

 氏真の個人的な感情は、藤吉郎を嫌っている。

 だが、雪斎も言っていたではないか。人の選り好みはするなと。

 そう自身を納得させ、藤吉郎を譲り受けた氏真だが、今までの人材と違い、藤吉郎を直臣ではなく陪臣、すなわち勘助の家臣として取り立てた。

 好まない人物を自分の側に置くほど氏真は出来た人物ではなかったこと、これ以上他国者ばかりを集めて家中の反感を買うのを避けた結果である。 

 藤吉郎としても不満はない。陪臣ではあるが、主人の勘助は氏真の側近である。功績を挙げれば氏真の目にとまる可能性もあり、勘助に仕えれば兵法や築城、諜報などの技を学ぶことも出来のだ。

 こうして氏真と藤吉郎は、互いの思惑を抱えたまま、勘助を挟んで主従となった。

 時に氏真は十六歳、藤吉郎は十七歳であった。

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