11 駿河の阿呆
鵜殿長照から氏真が賊に襲われているとの報せを受けた三浦正俊は、すぐさま手勢を率いて『駿栄屋』へ向かった。
だが、正俊が駆けつけたときには、既に妓楼は焼け落ち、賊は引き上げた後であった。
正俊は全身に火傷を負い気を失った氏真と、負傷した朝比奈泰朝、由比正純を屋敷に連れ帰り手当を施すと同時に、妓楼の者の不手際による火災として事件の隠蔽を図った。
が、駿河でも一、二を争う妓楼の火災である。妓楼の関係者、騒ぎを聞きつけて集まった群衆、現場に駆けつけた三浦家の者達の口から、事件についての情報が断片的に漏れ、漏れた情報は面白可笑しい噂となって駿河の街に流布した。
曰く氏真は、
・他国の策略を見抜けず、遊女に騙されて重症を負った
・お気に入りの遊女を自らの物にしようとし、妓楼に火を付けた
・妓楼への支払いに困り、挙げ句逆上して主人や遊女を斬り捨て火を付けた
・罪人を火炙りにし、その姿を遊女とともに笑いながら見ていた
・戯れに遊女同士を殺し合わせ、怨みを抱いた遊女に刺された
と噂され、笑い話の種となった。
さて、今川の国府、駿河での騒ぎである。
噂は今川家の重臣達の知ることになり、彼等は顔を寄せては、
「若殿は遊女にうつつを抜かして大怪我だそうな」
「尾張のうつけと同じ愚物ではないか」
「あのようなお人が御館様の後を継ぎ、我等の主になるのか」
「だいだい、余所者と若造ばかりを側に集めていからこうなるのだ」
「家督は弟の夜叉丸様が継がれた方が良いのでは」
と囁き合った。
結果、駿府館での氏真の評判は地に落ちた。
そして一部の家臣達から氏真は影でこう呼ばれることとなる。
『駿河の阿呆』と。
氏真が幾ら愚行を重ね、一部の家臣達から『氏真ではなく夜叉丸を後継に』という声が上がっても、氏真が嫡子を廃されることはなかった。
何故なら、独裁者である当主義元に異を唱えられる二人の人物が、そろって氏真を嫡子に据え続けるよう求めたからである。
その内の一人、義元の生母である寿桂尼は、「あの子はまだ若いのです。一度や二度失敗したからといって、それを咎めるのは器量が小さいというもの。それに嫡子を変えればお家騒動の元と成り、他国に突き込まれる隙になります」と、氏真を庇った。
寿桂尼は孫に甘い祖母だが、自らの手で育てた氏真には特に甘い。
だが義元は母の意見にただ従うほど甘い男ではない。寧ろ彼は、自分の身内など領土を治めるための駒としか考えていない冷徹な男である。
自分に得があればこそ氏真は嫡子であり、損を与えるようであれば廃するだけである。
当たり前のことだが、嫡子とは次期当主である。
優秀であれば、その家は次代も頼りになると家臣達も安堵し、豪族達も支持するだろう。だが、余りに優秀である嫡子は、当主に不満を持つ者達の神輿となり、当主を追い出すこともある。武田晴信などがよい例であろう。
氏真をどう扱えば有益なのか。
義元は、自分に異を唱える事が出来るもう一人の人物、すなわち太原雪斎を呼び寄せ、意見を求めた。
「氏真の愚行は聞いておろう」
「はい」
「家臣達の中には、氏真を廃し夜叉丸を嫡子にという声もある。雪斎、そちはどう考える?」
「拙僧は、若殿を廃嫡すべきではないと考えております」
雪斎の言葉を意外に思わないのか、義元は表情を変えることなく先を促した。
「既に若殿は北条家から奥方を迎えることが決まっております。その若殿を廃嫡すれば、三国同盟は成り立ちません」
「氏康とて娘が可愛かろう。『駿河の阿呆』に娘を嫁がせるのは嫌がるのではないか?」
「仮に氏康が若殿を愚者と判断すれば、娘婿を助けるという名目で駿河に干渉するでしょう。逆に賢者と判断すれば、敵にまわすのを恐れ、同盟を維持するでしょう。どちらにせよ、この縁談は北条にとっては得しかありませぬ」
「三国同盟のために氏真を廃嫡しないという考えは分かる。だが一番の問題は、儂が死んだ後、氏真に今川の家を保てるかだ」
「誠に若殿が愚者であれば、泰朝や正純が命懸けで救おうとはしない筈。それに若殿はまだ十六歳です。失敗を糧に成長する余地は十分にございます」
「……そちも母上も氏真には甘いものよ。儂が健在な内に、あれが成長すればよいがな」
義元の言葉は、どこまでも冷ややかだった。
一方で氏真である。
三浦正俊の屋敷で目を覚ました氏真は、状況を把握すると哄笑した。
正俊を初め周囲の物は皆、氏真が怪我により気が触れたのかとギョッとした表情を浮かべる。
「いやいやいや。火には勝てんよ。人というのは実に無力だ」
「何を仰います! 若殿の軽率な行動が、このような事態を招いたのですぞ! 今後は今川家の嫡男としての自覚を持って慎みある行動を」
「爺。病人に説教するな」
氏真は正俊の言葉を遮ると、全身に包帯を巻かれた自身の姿を確認する。
「俺の怪我はどの程度なのだ?」
「全身に軽い火傷を負っており、左手と右足の骨が折れております。幸い、養生すれば後遺症は残らないとのことです」
由比正純の言葉に氏真は頷くと、
「正純、泰朝、長照。そちらがいなければ、俺は何事も為し得ず、間抜けな死に方だけが残っただろう。礼を言う」
「いけません。まだお休みになられて下さい」
上半身を起き上がらせて頭を下げようとする氏真を、周囲が押し止めた。
「して、俺を襲った賊の正体は分かったのか?」
氏真の問いかけに、山本勘助は首を振る。
氏真を襲ったくノ一とその仲間達は逃走し、くノ一を雇い入れた『駿栄屋』の主人は首を搔き斬られた死体となっていた。
「現在も捜索中ですが、賊の正体に繋がるような情報は上がっておりません」
「織田に足利、三好松永、或いは三河の不満分子か武田の者かもしれんな」
「武田? 武田は同盟国ではありませんか?」
驚いたような声を出す正俊。
「賊からは、何が何でも俺を殺すという気迫が感じられなかった。俺を襲撃し、女遊びにうつつを抜かして襲われた阿呆という評判を立てたかったのかもしれん。父上死後、駿河へ侵攻する為の布石としてな。
しかし、俺には敵が多いな。これも自業自得か」
「笑い事ではありませんぞ。一部の者達は若殿を『駿河の阿呆』と呼んでおります」
勘助の言葉に、氏真はまたも哄笑した。
「『駿河の阿呆』か。大いに結構。『尾張のうつけ』と良い勝負ではないか」
自身が阿呆と噂されていることを聞き、愉快そうに笑う氏真。
やはり頭の打ち所が悪かったのでないか?
周囲の者達がそのような表情を浮かべる中、氏真は笑いを治めると、
「今回の事件だが、俺の所業を脚色して周辺諸国に噂を流せ。今川氏真は『駿河の阿呆』と呼ばれているとな」
「何故そのようなことをするのですが?」
「なに。噂を聞いて俺を侮ってくれた方が、今後がやりやすくなる」
「しかし、そのような噂が拡がれば拡がるほど若殿ではなく夜叉丸様を次の国主にという声が上がりますぞ」
「構わんさ。俺に対して諫言する者は、当家の将来を考えているのだから見込みがある。だが、年端のいかぬ夜叉丸兎を嫡子になどと企む輩は、夜叉丸の下で甘い汁を吸いたいだけの俗物に過ぎぬ。そのような者達は、将来の今川家にとって不要の産物。これを契機に当家の家臣達の性根をしりたいのだ」
数ヶ月後、妓楼の一件は周辺諸国に知れ渡り、氏真は他国からも『駿河の阿呆』と揶揄されることになる。




