10 夜の出来事
「なんだ若。最近真面目に働いているそうじゃねえか?」
ある日、二俣城で政務に励んでいた氏真の元に、悪友達が訪ねてきた。
「俺は元々真面目な男だ。泰朝、お前とは違う」
「ほう。それじゃあ、今夜は付き合わないんだな」
「そうとは言ってない。働くときは働くし、遊ぶときは遊ぶ。それが出来る男というものだ」
「いくら理屈をこねたところで、若が女好きなのは分かってるぞ」
泰朝の言葉には遠慮がないが、それは彼が朝比奈家の嫡男だという傲慢さから来るものではなく、幼友達という親しさによるものである。
よって氏真も不快には感じない。
「泰朝。もう少し言葉に気を遣え。家臣にそのような態度を取られていると他国の者が知れば、若殿が侮られる」
そう泰朝を注意したのは、氏真や泰朝と同じ年頃の若い武士であった。
氏真のような貴公子然でもなく、泰朝のようにいかにも武人といった雰囲気でもない、取り立てて特徴のない中肉中背の青年である。
青年の名は由比正純。義元の重臣、由比正信の息子である。
「正純は相変わらず硬いなあ。俺達は幼友達だろ?」
「同時に主従でもある。泰朝、お前が今川家と若殿に忠義を持って尽くしていることは俺達には分かっている。だが事情を知らない余所者は、今川の若殿は家臣にあのような口の利き方をされている腰抜けだと思われるぞ」
「構わんぞ、正純。寧ろ他国者には警戒されるより舐められた方がいい。腰抜けだと侮っている相手に足下を救われるがいいさ」
「よくはありません。あまりに若殿の評判が芳しくないと、家督を夜叉丸様に継がせようと企む一派が産まれます。現に尾張ではうつけと呼ばれる信長ではなく、弟の信行に家督を継がせようとする動きもあります」
「杞憂だ。第一、夜叉丸はまだ十一歳だぞ」
「陰謀を企む者達にとっては、夜叉丸様の年齢や器量は関係ありません。駿河はよく治まっていますが、それでも現状の地位に不満を持つ者はおります。そうした者達が妙な気を起こさないよう努めるのも、嫡子たる若殿のお役目。
ただでさえ、若殿は周りを素性の怪しい者達で固めていると、駿府で噂になっております。もう少し慎重に行動をお願い致します」
正純の言うとおり、氏真の家臣は山本勘助・滝川一益・松永直と素性の知れない余所者ばかりで、駿府の重臣達は眉を顰めている。
だが氏真は義元や雪斎ならともかく、重臣達の評判などは気にしていなかった。それよりも有為な人材を集める方が大事である。
「まるで老臣のようなことを言う。正純、お前将来禿げるぞ」
「その責任は若殿にございます」
氏真の軽口に、正純は真面目に答える。
「では、正純は今夜は行かないのか?」
「……若殿の身を守るのが私の務め。ご一緒させて頂きます」
「よく言うわ。正純はあれだろ、嫁がいるから若をダシにしないと夜遊びが出来ないんだろ?」
「……潰すぞ」
「あ、はい、……銚子乗ってました、すいません」
泰朝が正座し頭を下げる。
普段は真面目な正純だが、一度タガが外れると手がつけられないほどの獰猛さを発揮することを、幼友達の泰朝や氏真は嫌と言うほど知っている。
「これで三人。長照、お前も付き合えよ」
泰朝に声をかけられ、それまで部屋の隅で書物を読んでいた小柄な青年が顔を上げた。
小柄な青年、鵜殿長照は三河上ノ郷城主鵜殿長持の息子である。母は義元の妹であるので、氏真にとっては従弟に当たる。
長照は一言で評するなら『文弱』である。暇さえあれば書物を読んでいるこの青年も、氏真の幼友達の一人である。
「……面倒だ。僕は女の相手をするより、本を読んでいたい」
「書物は年を取ってからでも読めるが、女は年を取ったら抱けぬぞ。ほら行くぞ」
氏真にそう言われ、長照は迷惑そうな顔で本を閉じた。
武勇に優れる朝比奈泰朝、冷静沈着な由比正純、内政が得意な鵜殿長照。
彼等が今川家を支えるのは、まだ先の話である。
駿府は今川家の首都であり、東海道一の繁栄を誇る町である。
その為、酒や博打、女を提供する遊び場は数多く存在する。
氏真達が贔屓にしている妓楼は『駿栄屋』という。
この店は遊女の質が高く、それだけに代金も高い。その為利用する客は限られ、人目につきにくいという利点があった。
氏真達はいつも通り偽名を使い、店に入る。
店の主人も氏真の正体には気付いているが、そこは商売人、氏真達を金回りの良い商家の若旦那として接していた。
「品川様。先日西国より良い女を仕入れましたが、如何致しましょう?」
「西国の女はまだ味わったことがない。今宵はその女にしよう」
駿栄屋は広く、それぞれの情事の様子が聞こえることはない。氏真達は別々の部屋へ別れた。
氏真が案内された部屋は駿栄屋の中でも一、二を争う豪勢な部屋だ。
氏真が上質な酔いが回らない酒を飲んでいると、やがて女が入ってきた。
艶のある黒髪は腰まで伸び、瞳は男を誘うように濡れ、唇は薄く赤く、鼻は細い。
年は氏真より二つ三つ上かも知れない。
確かに主人が言うように、女は美しかった。
氏真は十六歳。女の味を覚えると歯止めの利かない年頃だ。
女と二、三言葉を交わし、『夕』という名前と豊後の出身ということを知ると、もう話すのは十分とばかりに女の身体を抱き寄せた。
氏真が目を覚ますと、部屋は薄暗かった。外は暗く、部屋の中を蝋燭の明かりが点している。
女を抱いた後、疲れてそのまま眠ってしまったようだ。
氏真は布団から身を起こそうとし、そこで違和感を覚えた。
身体が動かないのだ。
手足が全く動かない。
夢を見ているのか、それとも脳だけが覚醒した金縛りのような状態なのか。
氏真は力を入れるがやはり身体は動かなかった。
「ふふふ。具合はどうかしら?」
頭上から笑い声がする。
氏真が自由になる眼球を動かすと、先程まで抱いていた夕が笑みを浮かべ、氏真を見下ろしていた。
「……何を、した?」
声を発するにもかなりの力が必要で、しかも喉から出る声は小さかった。
「痺れ薬よ。私の唾液の味は甘かったでしょう? 今川氏真様」
夕は氏真を見下ろしながら嘲笑した。
「……一体、……何が目的だ?」
「ただの仕事よ。貴男を苦しめて殺すように依頼されてね。だから身体の自由をきかない状態にしてから、両手両足の指を切断して、舌と歯を抜いて、眼球を抉って、嬲るように殺しすことになったの。ふふふ、どこまで耐えられるかしら?」
「……」
氏真は口を動かなかった。
それはなにも夕という女の術のせいだけではない。
氏真は自身が危機に陥ったことに呆然としていたのだ。
こんなところで呆気なく、俺は死ぬのか? まだこの時代で何も成していないというのに。
幾ら戦国時代の知識と自身の知恵に自信があっても、自身の身を守れなければ意味がない。
氏真は今更ながら自身の迂闊さを罵った。
「まずは、小指から」
夕は氏真の右の手のひらを広げると、小指に小刀を当てた。
その瞬間、部屋の襖が開いたと思うと、一つの影が夕に激突した。
「若殿から離れろ! 曲者が!」
影は正純であった。
不意を突かれた夕は小刀を落としたが、素早く正純から距離を取り、彼の刀から逃れた。
「無粋な男……。またお会いましょう、氏真様」
「逃がすか!」
正純が迫るが、夕の立っていた場所から煙幕が発生し、彼女の姿は煙と共に消えた。
「ちっ……。若殿、ご無事ですか!?」
「薬を……盛られた。身体が……動かん」
氏真の言葉に、正純は「失礼致します」と断り、氏真を背負った。
と、そこへ全身を返り血で濡らした泰朝がやって来た。
「正面には賊の仲間が潜んでいる。正確な数は分からんが、三十人は下るまい。正面からの突破は難しいぞ」
「なら裏口から脱出する。長照はどうした?」
「三浦殿の元へ走らせた」
襲撃者の正体か敵国の者か自国の者か分からない以上、駿府の重臣達の中で尤も信頼できるのは傅役の正俊である。だが、報せを受けた正俊が駆けつけるのには時間がかかる。ただ援軍を待っていてもなぶり殺しにされるだろう。
泰朝と正純の二人はそう結論を出すと、顔を見合わせた。
「正純、何やら臭いがするな」
「うむ。火攻めだな。早く逃げねば焼け死ぬ」
二人は頷くと、泰朝が先頭、正純が氏真を背負い、裏口へと走った。
「正純、ここで死んだら、俺達の名は歴史に残るな」
「妓楼で討たれた間抜けな若殿と家臣としてな」
裏口までの間に襲撃者は潜んでいなかったが、それよりも強大な敵が待ち受けていた。
裏口は既に炎に包まれていたのである。
「どうする? 引き返すか?」
正純の問いに泰朝は首を振る。
「正面には多数の敵が待ち構えている。ここは覚悟を決めて、炎の中を突破する方が安全だ。敵もまさかこちらから脱出するとは思っていまい。
若、いいよな?」
氏真は頷いた。自ら身体を動かすことのできない彼は、二人の勇気に賭けるしかなかった。
「では御免!」
そう言うと、泰朝と正純は炎の中に突入した。
炎、熱、煙。
髪の毛が焼ける音がした。
顔と身体が焼けるように熱い。
呼吸が止まる。
そして……。
苦しさに顔を上げた氏真の視界が、自分に向かって倒れてくる燃える梁を捉えた。
久々の更新になります。
片道二時間かかる場所に飛ばされました。
通勤に時間を取られて、なかなか書くことができません。
どうしたものか……。