理想の鏡
大学生の最初の春、私は彼に初めて出会いました。
まるでここから人生が始まったかのような、そん出会いでした。
私の父は、機嫌が悪くなると私に八つ当たりをしてくる人でした。私の母は、我関せずと、私と父を見て見ぬふりする人でした。そんな英才教育を受けたからでしょうか。いつの間にか私は、本当の自分を隠し、相手の望む自分を演じるようになっていました。まるで鏡のように。
高校に入ったころには、上手に自分を偽れるようになっていました。学校では仲の良い友人。バイトの時にはよく話す先輩。家では優しくしてくる親。常に誰かといました。周りの人からすると、私はきっと、理想を体現してくれる理想の鏡だったでしょう。しかし、皆から必要とされるほど、私は私を不要に感じていきました。皆の望みを演じて、自分を隠し偽るたびに、どこかから声が聞こえてくるのです。
「本当のお前は一生愛されない。だから、そうやって偽るしかない。」と。
最初は自室で一人で勉強しているときでした。しかしそこからだんだん悪化していき、いつの間にか場所も時間も関係なく、一日に何度も聞こえるようになっていきました。そのたびに私はポケットに手を入れ、太腿を撫で、自身に言い聞かせていました。「そんなことわかってるから何度も言わなくていい」と。
今でも実際に私は不要だと思います。他人の理想を映すことしかできない鏡を前にして、鏡の裏まで見る人なんていないのだから。
一番ひどかったのは大学受験の時でしょうか。一人の時間が増えるのに比例して、ポケットに手を入れることが増えていきました。私が勉強を頑張っているときにも、塾に移動しているときも、勉強を終えリラックスしているときも、常に声が聞こえるようになっていました。大学に進んでも、社会人になっても、結婚しても、死ぬまで鏡の裏は見られることはないと思うと、人間としての行動をすることすら億劫になっていきました。お生憎様、親や友人のおかげで、ご飯を食べないなんてことはなかったので、餓死はしなかったですけど。
周りに望まれるまま、都内の有名な国立大に進学した私は、周りの新入生とは真逆の心境だったでしょう。18年間も変わらなかった人生に期待できる要素を見出すこともできず、また、その感情を表に出すこともできませんでした。
しかし、そんな鏡は、ある一人の男によって壊されたのです。その男は入学式の時に横になった男です。私は彼の名前を最後まで知ることはありませんでした。いつも友人にするようにふるまうと、なぜか彼は顔を曇らせました。どこで間違えたのか。私はそれを彼の表情から探るよう頑張りました。私の心情が伝わったからでしょうか。彼のほうから教えてくれました。
「別に何も気にしないし、自分隠すのやめたら?」
衝撃でした。18年間誰にもバレなかった私の本心は、出会って数分の知らない男にバレてしまったのです。
「何のこと?別に隠してなんてないけど」
苦し紛れの私の虚勢なんて通じるはずもなく、私はつい本音を漏らしてしまいました。
「………」
「それが本音なんだ。それでいいと思うけどね」
彼は本当の私を知って、さらに肯定してくれました。彼に及ぶかはわかりませんが、私も人の気持ちはわかるほうだと思います。その私には、彼の肯定は本音に見えました。
それから私は彼と過ごす時間が多くなりました。18年間の孤独感が一気に消えていくような、そんな感覚です。親や友人に求められたことばかりしていた私には、新鮮な経験をたくさんすることが出来ました。そんな中で彼はふとこう言うことがありました。
「俺はたぶん20には死ぬから、それまでにやりたいことをやりきるんだ」
真実か妄言なのか。私は彼の表情を見るのが怖く、見ることはできませんでしたが、今思うと、本心だったのでしょう。もしもあの時、一度でも一緒に生きたいと言っていたら変わったのでしょうか。少なくとも当時は、彼の軽口なのかと思いました。私の気を軽くするために、軽口をよく言う方だったので。
入学式から1年が経とうとする冬。私は彼と二人で旅行に来ていました。異性との旅行なんてと、親は反対していましたが、その反対を振り切り彼と旅行に来ました。家に帰ると億劫ですが、旅行をしている時のこの楽しさを忘れることは今後一生ないでしょう。いや、できないでしょう。
旅行の最終日、彼は部屋で私に唐突に抱き着いてきました。驚きと多幸感で私は動けませんでした。そしてその多幸感で、私は初めて彼が好きだと自覚しました。
ハグされてから数秒経ってから、私が彼に目を向けると、彼はそのことに気づいたのか、ハグをやめ、少し離れてしまいました。入学式ぶりにしっかりと見つめた彼の顔からは、入学式の時と違い、彼の本心が伝わってきました。
「愛されたい」
彼も私と一緒だったのです。私がもしももっと早くに彼に向き合ったら変わったのでしょうか。いや、彼のことを知るのが怖かった私は、きっとどれだけ頑張っても、向き合うことはできなかったのです。
彼はふと笑い、その場で倒れてしまいました。後から知った話ですが、彼の体は病に犯されていたようです。決して不治の病ではないのに、彼が治療を拒んでいたせいで、直せなかったのです。彼の友人も誰もこんなうわさをしていなかったので、おそらくはみんなに隠していたのでしょう。私の鏡を勝手に壊しておいて、なんてわがままなんでしょう。
「そして私は、昔彼と話していたこと、愛されて死ぬからには好きな人に殺されたいというのを思い出し、彼の死体を傷つけました。これが私と彼のすべてです。」
「本当に、それが彼の本心だと思うのか」
警察の方は私の不思議そうな顔を見て、一呼吸はさみ、こう言いました。
「彼のスマホには、君のことを案じる言葉が残っていたよ。きっと自分が死んだら、君が罪をかぶるだろうと」
どうやら彼は、私の行動までしっかりと見抜いていたようです。ただ、それを知っても後悔はありません。だって、好きな人と心中できたのだから。
イメージ的には地獄です




