第8話 会えない理由
まもなく深夜二時。
スタッフ用モニターには、今夜届いたメールが表示されていた。夜更けのリスナー。その名前が、いつも通りそこにあった。
澪はモニターから目をそらすと、視線を上げた。その瞬間、七年前の光景が胸の奥で動いた。
あれは、テレビの生放送中だった。本番中に小さなミスが起き、カメラが切り替わる一瞬、若いアシスタントディレクターの女性が凍りついているのが見えた。
放送が終わったあとの小さな会議室で、彼女は大勢の関係者の前で頭を下げた。
「すみません。私のミスです」
声が震えていた。その場にいた誰もが、言葉を探していた。
澪はとっさに口を開いた。
「違うわ。それは番組の判断だから」
守るつもりだった。
場を収めるための言葉だった。
彼女だけのせいではないと庇う、ただそれだけのつもりだった。
けれど数日後、なぜかその言葉が週刊誌に載った。「若手女性スタッフを切り捨てたアナウンサー」という見出しと一緒に。
澪の守るための言葉は、彼女を切り捨てた言葉として報じられた。
そして、記事の中にはもう一つ名前があった。桐嶋颯。その場にいた音楽プロデューサー、と書かれていた。澪の名前と並んで。
澪はその記事を何度も読み返した。最初は、誤りだと思った。自分が言ったのはそういう意味ではない、と。でも何度読んでも、言葉は変わらなかった。言葉は、一度外に出てしまえば、書いた人間のものではなくなる。澪は、自分がずっとそれを知っていたくせに、忘れていたのだと思った。ページを閉じても、澪の中から文字が消えなかった。
そのころ颯は、独立に向けて大きな契約を控えていた。
記事が出たあと、関係者から電話が来ていたのを、澪は隣で聞いていた。「大丈夫ですか」という遠回しな言い方だったが、それで意味は伝わった。
颯は、心配そうにする澪に、心配するなと言った。きっと本気でそう思っていたし、実際そうだったのかもしれない。でも、澪は知っていた。颯がその契約のために、どれだけの時間を注いできたか。夜遅くまで資料を広げて、作業をしていた彼の背中を。
自分のせいで彼の努力がなかったことになるのは、澪には許せなかった。だから、颯が止める前に、去るしかなかった。
正しい選択だと思っていた。今でも、間違いだったとは言い切れない。ただ、颯に何も言わなかったことだけは、ずっと正しくなかった気がしていた。
もう一度、マイクの前に座り直して、澪は目を閉じた。
今さらだ。
今さら、会えるはずがない。
それでも、颯の名前は、七年経った今も、胸の奥にある。
澪はヘッドフォンを押さえ、深く息を吸う。
声は、いつも通りに出る。今はそれだけでいい。
「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
いつもと同じように番組を進める。
何があっても、日常は続いていく。置いてきた過去は、そっと胸の奥にしまっておく。七年間、そうやって過ごしてきた。
「では、本日の最初の曲を」
ボタンを押すと、スタジオに音楽が流れ始める。
曲が流れている間、澪はマイクから少し離れ、ヘッドフォンをずらして深く息を吐いた。スタジオの外を見る。ガラス越しの調整室には、誰もいない。機材のランプだけが静かに光っている。深夜の局は、いつもよりも静かに感じた。
澪は目を閉じる。胸の奥が、まだ静かに痛んでいた。
そのころ。
街の別の場所で、桐嶋颯は車の中にいた。エンジンは止めてある。車は静かな通りに停まっていた。目の前には、地方FM局の小さなビル。
この局を見つけたのは、偶然だった。
深夜、車を走らせながらラジオを流していた。何気なくつけた番組。最初の一言で、颯にはわかった。七年前と同じ声。名前を変えていてもわかる、これは澪の声だ。
それから何度もこの番組を聴いた。夜更けのリスナーという名前でハガキを送った。メールも送った。声を聴くだけでいい。最初は、そう思っていた。
今日も、気がついたら、この道を走っていた。
目的があったわけじゃない。ただ、声が聴こえる方向へ向かっていた。それだけだった。
颯はハンドルに手を置いたまま、建物を見上げる。窓の奥にスタジオの灯りが見える。そこにいる。すぐそこに。颯は車のドアに手をかけた。少しだけ力を入れれば、ドアは開くはずだった。けれど、颯は手を止めた。
七年前、何も言わずに去った澪。理由も説明もなかった。あのとき、どれだけ探したか。どれだけ待ったか。それでも、澪は戻らなかった。それが答えだと思った。
ラジオから、澪の声が流れている。少し低くて、柔らかい声。颯はハンドルに額を軽く預ける。
「……会えない、よな」
小さく呟く。今夜も、夜更けのリスナーとしてメールを送った。きっと、放送では読まれない。それでも颯は、ラジオを切らなかった。車の中に、澪の声が溢れる。
それだけでいい。今夜は、それでいい。
颯はシートに背を預け、静かに目を閉じた。
同じ夜。
同じ街。
同じ放送。
それでも、二人の距離は、まだ遠かった。




