第7話 名乗り
深夜二時。
スタジオの赤いランプが灯る。
ON AIR。
瀬川澪はヘッドフォンを整え、マイクの前に座った。
「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
この街の夜は、少しだけ静かだ。東京にいた頃は、深夜でも街のどこかが騒がしかった。車の音、人の声、ネオンの光。ここでは、夜は本当に夜になる。
「この時間、起きているあなたは今、どんな夜を過ごしていますか。眠れない夜。仕事帰りの車の中。あるいは、ただラジオをつけているだけかもしれませんね」
深夜のラジオは、急がない。声を置いていくだけでいい。
スタッフ用モニターに目を落とすと、今夜届いたメールが並んでいた。いつものリスナー。初めての名前。そして、夜更けのリスナー。
ここ数週間、この名前を何度も見ている。ハガキで。メールで。どれも短い言葉だが、不思議だった。澪の言葉の少し奥を読んでいるような文章。まるで、昔から澪の声を知っている人のような。
澪は小さく息を整える。昨夜、放送のあと、番組のメールボックスに短いメッセージが届いていた。
『聴こえていました』
それだけだった。澪は返信していない。どう返せばいいのか、分からなかったからだ。あの独り言。あの本音。誰かが聴いていた——それだけで、胸の奥が静かに揺れ続けている。
澪はゆっくりとモニターをスクロールする。今日のメールの中に、夜更けのリスナーからのものがあった。澪はほんの一瞬だけ目を閉じ、それから、いつもの声で言った。
「ラジオネーム、夜更けのリスナーさん」
澪はメールを読み上げる。
「『昨日の放送を聴きました』」
その先の行で、澪の視線が止まった。声に出せなかった。代わりに、目だけでその文字を追う。
『澪へ、夜更けのリスナー桐嶋颯より』
呼吸が、止まった。世界の音が、ふっと遠くなる。
桐嶋颯。
その名前に、七年前の夜がよみがえる。
あのとき止まった時間が、今ここで突然動き出した気がした。理由も言わずに別れを告げて、澪は彼の元を去った。その名前は、ずっと体の奥に残っていた。七年間、忘れたことは一度もなかった。けれど、こうして彼と直接やり取りすることは、もう二度とないと思っていた。
スタジオの灯りが目に入り、一瞬、澪は我に返った。
今はラジオの生放送だ。
どこかで誰かが聴いている。
何か言わなくてはいけない。
そうわかっていても、澪は動けなかった。
一秒。二秒。三秒。
深夜のラジオで、この沈黙は長すぎる。
四秒。五秒。
そのとき、スタッフ用モニターに小さな通知が出た。新着メール。澪の視線がそこに引き戻される。現実が、ゆっくり戻ってくる。
澪は深く息を吸った。声は少しだけ震えていたが、それでも、パーソナリティとして。
「……次の曲を」
やっと言えたのは、それだけだった。
澪はボタンを押す。スタジオに音楽が流れ始める。静かなピアノの旋律が、深夜の空気に溶けていく。澪はマイクから少し離れ、ゆっくり目を閉じた。胸の奥が、まだ揺れている。
そのころ。
街の別の場所で、桐嶋颯はラジオの前に座っていた。
部屋の灯りは落としてある。机の上にはノートパソコン、書きかけの五線譜、コーヒーのカップ、そしてラジオ。スマートフォンは画面を上にして置かれていた。送信済みのメール画面が、まだ開いたままだった。
ラジオから流れているのは、夜に似合う美しいピアノの曲だった。
颯は動かなかった。さっきの沈黙——あの長い沈黙を、思い返していた。深夜のラジオで沈黙は事故だ。普通なら、すぐに何か言葉をつなぐ。それでも澪は、沈黙した。それはつまり、メールを読み、自分を思い出したということだ。
夜更けのリスナーが自分だと明かすことは、賭けでもあった。そのまま流された場合、澪の中に自分はもういない。でも、あの沈黙は、桐嶋颯という名前が、今でも澪にとって何かしらの意味があったということだ。
颯は小さく息を吐き、それからほんの少しだけ笑った。
「……変わらないな」
昔からそうだった。澪は逃げない。苦しくても、怖くても、最後にはちゃんとそこに立つ。あの五秒の沈黙が、その証明だった。
颯は椅子の背にもたれた。あれから七年。颯にとって長い時間だったけれど、今、二人は同じ夜にいて、同じ音楽を聴いている。ラジオから、ピアノの音が静かに流れている。
颯は目を閉じて、小さく呟く。
「やっと、名乗れた」
この番組を見つけた夜、澪の声に気づいた瞬間、そして夜更けのリスナーという名前で送った最初のハガキ。
ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかった。
七年前のあの夜、澪は何も言わずに去った。理由も、説明もなかった。それから颯は、ずっと澪の声を探していた。探しているわけじゃない、と自分に言い聞かせながら、それでも、どこかでずっと探していた。
颯はもう一度、小さく息を吐く。
「……ここから、だな」
誰に言うでもない声だった。同じ夜の中で、止まっていた時間が、静かに動き出していた。




