表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の声で終わる夜  作者: 廻野 久彩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/8

第6話 独り言

深夜二時。


スタジオの赤いランプが灯る。


ON AIR。


瀬川澪はいつものようにヘッドフォンを整え、マイクの前に座った。


「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」


静かな夜だった。


この時間のラジオは、昼の番組とは違う。

急ぐ必要も、盛り上げる必要もない。ただ、誰かの夜に寄り添うだけでいい。


「今夜も、眠れないあなたと少しだけ時間を過ごせたら嬉しいです」


ジングルが流れ、やわらかなピアノの音がスタジオを満たした。


澪はスタッフ用モニターに目を落とす。最近、この番組には少しだけメールが増えていた。ハガキよりも早く届く言葉。夜更けに届く、知らない誰かの声。


「まずは、ラジオネーム、春待ちの猫さんからのメッセージです」


澪はモニターを読みながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「『前回も、メッセージを読んでいただきありがとうございました。あのあと、少しだけ友達に話してみました。まだ全部は言えないけど、前よりは少し楽になった気がします』」


澪は、ほんの少しだけ目を細める。


「そうでしたか、それなら、よかったです」


少しだけ間を置く。


「全部話さなくてもいいんですよ。話せるところから、少しずつで。言葉って、急いで出さなくても大丈夫ですから。春待ちの猫さんのペースで、ゆっくり進んでいけばいいと思います」


澪は一拍置き、次の曲名を告げた。


「では、一曲お届けします」


静かなギターの旋律が、スタジオに流れ始める。


澪はヘッドフォンを少しずらして、椅子にもたれた。曲の波形がモニターにゆっくり流れていく。春待ちの猫さんは、友達に話せた。少しずつ、でも確かに前へ進んでいる。


自分はどうだろう。


澪はそこで思考を止めた。放送中に、余計なことを考えるべきじゃない。


曲が続いている。スタジオは静かで、機材のランプだけが規則正しく光っていた。


そのとき、スタッフ用モニターに小さな通知が出た。メールの新着。


澪は少し首をかしげた。差出人の名前を確認する。


夜更けのリスナー。


澪の視線が、わずかに止まる。曲はまだ流れている。澪はそのメールをゆっくりと読んだ。短い文章だった。それでも、読み終えるまでに少しだけ時間がかかった。


曲が終わる。澪はマイクへ戻る。


「ラジオネーム、夜更けのリスナーさん」


澪は読み始める。


「『メール、読んでいただいてありがとうございました。話したい、と書いたのに、まだ何も話していませんね』」


澪は少しだけ笑う。


「確かに、そうですね。でも、いいと思いますよ。話すことって、急がなくてもいいものですから」


澪は一拍置く。


「夜更けのリスナーさんが、話したいと思ったときに、話してくださいね。私はここで、ちゃんと聞いています」


私を知っている、誰か。

七年前のことを知っている、誰か。


期待と不安が入り交じった気持ちを抑えて、澪は続けた。


「それでは、そろそろお別れの時間です。また明日お会いしましょう」


エンディング曲が流れる。

穏やかなギターの旋律は、深夜に似合う、静かな音楽だった。


澪はヘッドフォンを少しだけずらした。スタジオの赤いランプは、まだ点いたままだった。澪は椅子の背にもたれ、スタッフ用モニターに残ったメールをもう一度見て、小さく笑った。


「……不思議な人」


誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。


ハガキの頃は、数日おきだった。今はメール。同じ夜に言葉が届く。それだけのことなのに、距離が少しだけ変わった気がする。澪は椅子に座ったまま天井を見上げた。


ラジオの仕事をしていると、声だけの関係が増える。顔も知らない。名前も知らない。それでも、声は残る。声は、覚えてしまう。


「……好きだったんだよね」


ふと、言葉がこぼれた。独り言だった。誰もいないスタジオ。マイクはもう切れている、と澪は思っていた。


「守るため、とか言って。本当は、怖かっただけかもしれない」


七年前、まだ東京で仕事をしていた頃。忙しくて、でも充実していて、未来が続いていくものだと疑っていなかった頃。


仕事の帰り道、車の中で流れていた音楽。

何気ない会話。

くだらないことで笑った夜。


その全部が、遠い昔のことのようだった。


澪はスタッフ用モニターをもう一度見る。夜更けのリスナー。顔も知らない人。それでも、なぜかその人になら言える気がした。


「自分で手放したくせに……まだ、好きなんだよね」


ぽつりと言う、その声はとても小さかった。


「最低だな」


澪は小さく笑った。それから、ようやく椅子から立ち上がる。ON AIRの赤い灯りは、すでに消えていた。スタジオの灯りを落とす。静かな夜。いつもと同じ、放送後の時間。


そのころ。


街の別の場所で、男はラジオの前に座っていた。

デスクの上にはノートパソコン、書きかけの五線譜、そしてラジオ。


颯は動かなかった。ラジオから流れてきた声を、もう一度思い出していた。


「……まだ、好きなんだよね」


その言葉。七年、何も聞けなかった時間。理由も、気持ちも、何も。でも、今、少なくとも一つだけ、分かった。


「俺だけじゃなかったと思って、いいだろうか」


颯はゆっくりと目を閉じる。


デスクの横には、古いラジオレコーダーが置かれていた。この番組を録音するためのものだった。颯はいつからかそれを続けていた。理由は、自分でもうまく説明できない。ただ、彼女の声を残しておきたかった。それだけだった。


颯はスマートフォンを手に取る。いつもの通り、公式サイトのメールフォームを開く。夜更けのリスナー。指が、少しだけ震える。そして、短く打つ。


『聴こえていました』


送信ボタンを押すと、颯は小さく息を吐いた。


「……そろそろ、かな」


誰に言うでもなく呟く。


ラジオからは、別の番組が静かに流れ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ