第6話 独り言
深夜二時。
スタジオの赤いランプが灯る。
ON AIR。
瀬川澪はいつものようにヘッドフォンを整え、マイクの前に座った。
「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
静かな夜だった。
この時間のラジオは、昼の番組とは違う。
急ぐ必要も、盛り上げる必要もない。ただ、誰かの夜に寄り添うだけでいい。
「今夜も、眠れないあなたと少しだけ時間を過ごせたら嬉しいです」
ジングルが流れ、やわらかなピアノの音がスタジオを満たした。
澪はスタッフ用モニターに目を落とす。最近、この番組には少しだけメールが増えていた。ハガキよりも早く届く言葉。夜更けに届く、知らない誰かの声。
「まずは、ラジオネーム、春待ちの猫さんからのメッセージです」
澪はモニターを読みながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「『前回も、メッセージを読んでいただきありがとうございました。あのあと、少しだけ友達に話してみました。まだ全部は言えないけど、前よりは少し楽になった気がします』」
澪は、ほんの少しだけ目を細める。
「そうでしたか、それなら、よかったです」
少しだけ間を置く。
「全部話さなくてもいいんですよ。話せるところから、少しずつで。言葉って、急いで出さなくても大丈夫ですから。春待ちの猫さんのペースで、ゆっくり進んでいけばいいと思います」
澪は一拍置き、次の曲名を告げた。
「では、一曲お届けします」
静かなギターの旋律が、スタジオに流れ始める。
澪はヘッドフォンを少しずらして、椅子にもたれた。曲の波形がモニターにゆっくり流れていく。春待ちの猫さんは、友達に話せた。少しずつ、でも確かに前へ進んでいる。
自分はどうだろう。
澪はそこで思考を止めた。放送中に、余計なことを考えるべきじゃない。
曲が続いている。スタジオは静かで、機材のランプだけが規則正しく光っていた。
そのとき、スタッフ用モニターに小さな通知が出た。メールの新着。
澪は少し首をかしげた。差出人の名前を確認する。
夜更けのリスナー。
澪の視線が、わずかに止まる。曲はまだ流れている。澪はそのメールをゆっくりと読んだ。短い文章だった。それでも、読み終えるまでに少しだけ時間がかかった。
曲が終わる。澪はマイクへ戻る。
「ラジオネーム、夜更けのリスナーさん」
澪は読み始める。
「『メール、読んでいただいてありがとうございました。話したい、と書いたのに、まだ何も話していませんね』」
澪は少しだけ笑う。
「確かに、そうですね。でも、いいと思いますよ。話すことって、急がなくてもいいものですから」
澪は一拍置く。
「夜更けのリスナーさんが、話したいと思ったときに、話してくださいね。私はここで、ちゃんと聞いています」
私を知っている、誰か。
七年前のことを知っている、誰か。
期待と不安が入り交じった気持ちを抑えて、澪は続けた。
「それでは、そろそろお別れの時間です。また明日お会いしましょう」
エンディング曲が流れる。
穏やかなギターの旋律は、深夜に似合う、静かな音楽だった。
澪はヘッドフォンを少しだけずらした。スタジオの赤いランプは、まだ点いたままだった。澪は椅子の背にもたれ、スタッフ用モニターに残ったメールをもう一度見て、小さく笑った。
「……不思議な人」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
ハガキの頃は、数日おきだった。今はメール。同じ夜に言葉が届く。それだけのことなのに、距離が少しだけ変わった気がする。澪は椅子に座ったまま天井を見上げた。
ラジオの仕事をしていると、声だけの関係が増える。顔も知らない。名前も知らない。それでも、声は残る。声は、覚えてしまう。
「……好きだったんだよね」
ふと、言葉がこぼれた。独り言だった。誰もいないスタジオ。マイクはもう切れている、と澪は思っていた。
「守るため、とか言って。本当は、怖かっただけかもしれない」
七年前、まだ東京で仕事をしていた頃。忙しくて、でも充実していて、未来が続いていくものだと疑っていなかった頃。
仕事の帰り道、車の中で流れていた音楽。
何気ない会話。
くだらないことで笑った夜。
その全部が、遠い昔のことのようだった。
澪はスタッフ用モニターをもう一度見る。夜更けのリスナー。顔も知らない人。それでも、なぜかその人になら言える気がした。
「自分で手放したくせに……まだ、好きなんだよね」
ぽつりと言う、その声はとても小さかった。
「最低だな」
澪は小さく笑った。それから、ようやく椅子から立ち上がる。ON AIRの赤い灯りは、すでに消えていた。スタジオの灯りを落とす。静かな夜。いつもと同じ、放送後の時間。
そのころ。
街の別の場所で、男はラジオの前に座っていた。
デスクの上にはノートパソコン、書きかけの五線譜、そしてラジオ。
颯は動かなかった。ラジオから流れてきた声を、もう一度思い出していた。
「……まだ、好きなんだよね」
その言葉。七年、何も聞けなかった時間。理由も、気持ちも、何も。でも、今、少なくとも一つだけ、分かった。
「俺だけじゃなかったと思って、いいだろうか」
颯はゆっくりと目を閉じる。
デスクの横には、古いラジオレコーダーが置かれていた。この番組を録音するためのものだった。颯はいつからかそれを続けていた。理由は、自分でもうまく説明できない。ただ、彼女の声を残しておきたかった。それだけだった。
颯はスマートフォンを手に取る。いつもの通り、公式サイトのメールフォームを開く。夜更けのリスナー。指が、少しだけ震える。そして、短く打つ。
『聴こえていました』
送信ボタンを押すと、颯は小さく息を吐いた。
「……そろそろ、かな」
誰に言うでもなく呟く。
ラジオからは、別の番組が静かに流れ続けていた。




