第5話 ハガキじゃ足りない夜
深夜二時。
スタジオの赤いランプが灯る。
ON AIR。
瀬川澪はヘッドフォンを整え、静かにマイクへ向かった。
「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
時計は2:00。スタジオの空気は、いつもの深夜と同じだった。静かで、少しだけ孤独で、けれどどこかやさしい。
「今夜も、眠れないあなたと少しだけお話しできたら嬉しいです」
ジングルが流れる。澪は机の上のハガキの束を整えた。一番上の差出人は、夜更けのリスナー。その名前は、もう見慣れてきていた。三通目のハガキ。澪はそれを指先でなぞる。今夜は、何が書いてあるだろう。
夜更けのリスナー。短い言葉しか書かない人だった。それでも不思議と、その文章は胸に残る。
「ラジオネーム、夜更けのリスナーさん」
澪は読み始める。
「『先週の放送、聴きました』」
短い。
「『言葉って、便利ですよね』」
澪の呼吸が少しだけ止まる。それは、先週自分が言った言葉だった。
「『その場をやり過ごすこともできるし、きれいにも聞こえる。でも、ときどき』」
一拍。
「『いちばん大事なものから先に、こぼれていく』」
そこまで読んで、澪は小さく息を吐いた。まるで、誰かに会話を返されたみたいだった。
「夜更けのリスナーさん、先週の放送、聴いてくださっていたんですね。……ありがとうございます」
ほんの少しだけ笑う。
「私、あのとき、ちょっと喋りすぎたなと思ってたんです。この番組は、誰かの話を聞く場所なのに、つい、自分の話をしてしまったので」
少しだけ沈黙が落ち、澪はハガキを見つめる。紙の文字は静かなのに、そこに確かな温度がある気がした。
「でも、ちゃんと聴いてくれていた人がいるなら、それだけで、少しだけ救われますね」
曲が流れる。静かなピアノの旋律。澪はハガキを机に戻した。
夜更けのリスナー。短い文章。余白の多い言葉。それなのに、なぜかいつも返事をしたくなる。まるで、そこに誰かが座っているみたいに。
そのころ。
街の別の場所で、男は机の前に座っていた。
ラジオから澪の声が流れている。デスクの上にはノートパソコン、書きかけの五線譜、冷めたコーヒーのカップ。そして、端に無造作に重なった、書きかけのまま没にしたハガキが何枚か。書いては止まり、書いては捨てた言葉たちだった。
颯はその束を指先で軽く叩いた。
「……だよな」
小さく呟く。澪は言葉を覚えていた。あの放送の言葉を、自分の言葉みたいに返してくれた。颯は椅子にもたれ、天井を見上げる。
七年。何も言えなかった時間。それでも、声は届く。ラジオという、顔の見えない場所で。そしてハガキという、少しだけ時間のかかる場所で。
颯は机の上のスマートフォンを手に取った。画面を開き、FM局公式サイトのメールフォームで指が止まる。
今までは、ハガキだった。時間をかけて書いて、投函して、数日後に届く。それくらいの距離が、ちょうどよかった。近すぎない距離。声を聴くだけの距離。でも今夜、その距離が少しだけ窮屈に感じた。
颯はラジオを見た。そこから澪の声が流れてくる。
もし、会いに行ったら。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。会いに行く理由なんて、いくらでも作れる。でも、それは違う。声の向こうにいる澪に、自分の存在を今すぐ押しつけたくはなかった。それだけははっきりしていた。
でも、あの没ハガキの束を見ていると分かる。ハガキでは何度書き直しても、言葉はいつも途中で止まる。メールなら、少しだけ違うかもしれない。
「……ハガキじゃ足りない、か」
小さく呟く。それは、ほとんど独り言だった。
指が動く。メールフォームに文字を打つ。夜更けのリスナー。本文は、短く書くつもりだった。でも、少しだけ迷う。それから、こう打った。
『ハガキより、距離が近づく気がします』
少しだけ、指が止まる。そして続ける。
『もう少しだけ話したいです』
颯は一瞬だけ画面を見つめて、送信ボタンを押した。スマートフォンの画面が暗くなる。ラジオでは、曲が終わろうとしていた。
曲が終わったスタジオでは、澪が次のメッセージを読もうとしていた。
そのとき、スタッフ用のモニターに小さな通知が出る。メールの着信。澪は少し首をかしげた。局の公式メールフォームはあるが、この番組に届くメッセージのほとんどは今でもハガキだった。メールはまだ、珍しい。
画面を確認する。差出人、夜更けのリスナー。
澪は思わず瞬きをした。ハガキじゃなくて、メール。ほんの少しだけ、距離が近くなる。
澪はその文章を読んだ。
『ハガキより、距離が近づく気がします』
自分が感じたことがそのまま書かれていたことに、胸がわずかに揺れる。
『もう少しだけ話したいです』
澪はそのまま、一瞬動けなかった。
ラジオの赤いランプが光っている。
今は生放送中だ。
澪は深く息を吸い、静かにマイクへ向かった。
「……夜更けのリスナーさん、メール、ありがとうございます」
その声は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。




