第4話 声の輪郭
深夜二時。
再び、スタジオの赤いランプが灯る。
ON AIR。
瀬川澪はヘッドフォンを耳に当て、静かにマイクへ向かった。
「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
外は完全な夜だった。
この街の深夜二時は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かになる。遠くの国道を走るトラックの音だけが、ときどき空気を震わせる。
「今夜は少しだけ、いつもと違う夜です」
澪は軽く笑った。
「この番組、基本的には私ひとりでお届けしているんですが……今日はゲストの方に来ていただいています」
澪の視線を受け、向かい側のゲスト用マイクの前で、男が軽く手を挙げた。
「今夜のゲストは、この局で夕方の音楽番組を担当している、三浦透さんです」
マイクの前に座った男は、苦笑しながら軽く頭を下げる。
「こんばんは。お邪魔してます」
「透さんはですね、この局の夕方の音楽番組を担当していて……実は、私がこの街に来て最初に仲良くなった人なんです」
「いやいや、仲良くなったっていうか、最初に迷子になってたのを拾っただけですよ」
「あ、それ言います?」
二人の笑い声に、スタジオの空気が少し柔らぐ。
深夜ラジオは、こういう会話が似合う。派手じゃなくていい。笑い声も小さくていい。ただ、誰かがそこにいると分かるだけで、夜は少しやさしくなる。
「今日は音楽の話でもしながら、ゆっくり進めていこうかなと思っています」
澪はそう言って、机の上の、透が持ってきた曲のリストに目を落とす。そこに見覚えのある曲名があった。少しだけ、指先が止まる。けれど澪は何も言わず、話を続けた。
「透さんって、もともと音楽業界の人なんですよね?」
「まあ、一応」
透は肩をすくめる。
「昔はレーベルにいたんですよ。そこでプロデューサーのアシスタントみたいなことをしてました」
「そうだったんですね。じゃあ、いろんなミュージシャンと仕事してたんですか?」
「いやいや、俺は裏方でしたからね」
透は笑う。
「でも、ひとりだけすごい奴がいて」
そこで少しだけ言葉を探す。
「年下だったんですけどね。でも、やたら冷静で。曲の作り方も、考え方も、全部ロジックで説明できるタイプで」
透は遠くを見るみたいな顔をした。
「それなのに、彼の音は、ちゃんと人の感情を揺らすんですよ」
「すごいですね」
「すごかったですよ。桐嶋っていうんですけど」
その瞬間、澪の動きが止まった。ほんの一瞬。ほんの、0.5秒。それでも、確かに止まった。マイクの前で、まばたきが一度遅れる。
けれど。
「桐嶋さん」
澪はすぐに微笑んだ。声は、完全にいつも通りだった。
「その方は、今はどうしてるんですか?」
透は気づかない。
「今は独立して、音楽プロデューサーやってますね。まあ、あいつならやるだろうなって感じでしたけどね。昔から、変にブレない奴だったから」
澪は資料に視線を落とし、そこに書かれている曲名をもう一度確認する。その曲は、かつてよく聴いた曲だった。七年前、まだ東京にいた頃、まだいろんなものが壊れていなかった頃、スタジオ帰りの車の中でよく流れていた曲。
「……いい曲ですよね」
澪は小さく言う。
「ですよね。これ、桐嶋がアレンジ担当した曲なんですよ」
澪は目を伏せる。ほんの一瞬だけ。それから、また顔を上げる。
「じゃあ、今夜はその曲をかけましょうか」
声は、落ち着いていた。
澪は軽く頷いて、曲名を告げ、フェーダーを下げた。
音楽が流れ始める。スタジオの空気が、静かに満ちていく。透はヘッドフォンを外して、小さく笑った。
「懐かしいな、この曲」
澪は何も言わない。ただ、曲の波形がモニターに映るのを見ていた。
そのころ。
街の別の場所で、男はラジオの前に座っていた。
デスクの上にはノートパソコン、開いた五線譜、書きかけのメロディ。そして、脇に立てかけた古いアルバムジャケット。自分がアレンジを担当した、数年前のアルバムだった。また聴くかもしれないと思って、なんとなく引っ張り出してきたものだ。
けれど今は、手を動かしていなかった。ラジオから、懐かしい声が聞こえたから。
颯は小さく息を吐く。
「透さんか」
苦笑する。あいつ、ラジオ出てたのか。音楽が流れ始める。颯は椅子にもたれ、天井を見上げる。
「……気づいたかな」
ラジオの向こう、澪は何も言わなかった。それでも、あの一瞬の沈黙だけで、十分だった気がした。颯はラジオのボリュームを少し上げる。曲は静かに続いている。その音の向こうに、澪の呼吸がある。それだけで、今夜は十分だった。
スタジオでは、曲が終わろうとしていた。澪はヘッドフォンを少し押さえ、マイクへ戻り、曲名を告げる。声は落ち着いていた。少なくとも、リスナーにはそう聞こえるはずだった。
けれど、透はふと澪を見た。ほんの一瞬だけ。彼女の表情が、少しだけ遠くを見ていたから気がしたから。澪はすぐに微笑む。
「……いい曲ですね」
その言葉が誰に向けたものだったのか、透には分からなかった。




