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君の声で終わる夜  作者: 廻野 久彩


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3/10

第3話 言葉は、残る

深夜二時。


今日も、スタジオの赤いランプが灯る。


ON AIR。


瀬川澪はヘッドフォンを整え、マイクの前でひとつ息を吸った。


「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」


卓上時計は、ちょうど2:00を指していた。


「眠れない夜って、どうして少しだけ、考えなくていいことまで考えてしまうんでしょうね」


少しだけ笑う。


「昼間ならやり過ごせることが、夜になると急に立ち止まってしまうことがある。今夜もそんなあなたと、静かに時間を過ごせたら嬉しいです」


ジングルが流れ、やわらかなギターの音がスタジオに満ちる。


澪は一枚目のハガキを手に取った。


「ラジオネーム、春待ちの猫さん」


その名前を口にした瞬間、ほんのわずかに指先に力が入る。先週、読んだ名前だった。後輩をきつく叱ってしまった。本当は守りたかったのに、泣かせてしまった。そう綴っていた人。


澪はハガキをめくる。


「『先週、メッセージを読んでくださってありがとうございました。あのあと、勇気を出して後輩に会いに行きました。正直、まだ気まずいです。ちゃんと許してもらえたわけでもありません。でも、"本当は守りたかった"と伝えました』」


澪の声が、ほんのわずかにゆるむ。


「『あのとき朝倉さんが、"あとからでも届く言葉があると思う"と言ってくれたので、逃げずに行けました。ありがとうございました』」


読み終えたあと、澪は少しだけ黙った。空調の音だけが、かすかに耳に残る。


「春待ちの猫さん、メッセージ、ありがとうございます」


いつもより、わずかに低い声で言う。


「……よかったですね」


短い言葉なのに、その一言を口にするまでに少しだけ時間がかかった。


「ちゃんと会いに行って、ちゃんと伝えたんですね。たぶん、それってすごく怖かったと思います」


澪は手元のハガキを見つめたまま、続ける。


「気まずさが消えるわけでもないし、言ったから全部元通りになるわけでもない。それでも、言わなかった後悔より、言ったあとの痛みのほうが、きっと少しだけ先に進めるんだと思います」


自分に言い聞かせるみたいな声だった。


「だから春待ちの猫さんが、その一歩を選んだこと、私はとても素敵なことだと思います」


ハガキをそっと机に置く。曲へつなぐはずだったのに、澪はすぐには次の言葉を口にできなかった。


春待ちの猫さんは、伝えたのだ。怖くても。遅くても。うまく許されなくても。


それに比べて、自分はどうだろう。


澪はマイクの先を見つめる。目の端に、赤いランプが静かに光っているのが見える。ラジオの向こうには誰かがいる。顔は見えない。それでも、たしかに誰かが聴いている。


だから本当は、こんなことを言うべきじゃないのかもしれないと思った。パーソナリティが、自分の感情を持ち込みすぎるべきじゃない。澪はそういう線引きを、ずっと守ってきた。


けれど今夜は、うまく飲み込めなかった。


「……今夜は、少しだけ」


澪は小さく息を吸う。


「少しだけ、私の話をしてもいいですか」


言ってしまってから、喉の奥がかすかに熱くなる。でも、もう止めなかった。


「私も、誰かを傷つけたことがあります」


まっすぐマイクに向かって言う。


「守るつもりで言った言葉が、結果としてその人の居場所を奪ってしまったことがあるんです。悪意はありませんでした。少なくとも、そのときの私はそう思っていました。本当は庇いたかった。守りたかった。そう言えば聞こえはいいけれど……たぶん、半分は違いました」


澪は目を伏せる。


「怖かったんだと思います。ちゃんと向き合って、自分の言葉で引き受けることが。だから、その場をやり過ごせるような言い方を選んだ。その結果、傷つけたくなかった人を、いちばん傷つけました」


スタジオは静まり返っている。誰もいない調整室。積まれた資料。閉じたガラス。音を吸う壁。その静けさが、今夜だけは少し心強かった。


「言葉って、便利なんですよね。ちゃんと選べば、きれいにも聞こえるし、賢くも聞こえる。その場を収めることだってできる」


「でも、ときどき」


そこで少しだけ声が揺れた。


「ときどき、いちばん大事なものから先に、こぼれていくことがある」


短い沈黙が落ちる。澪は目を閉じた。


春待ちの猫さんは、会いに行った。自分はまだ、何も言えていない。謝ることも。説明することも。許してほしいと願うことすら、きっとどこかで諦めてしまっていた。


「だから」


澪はゆっくりと言う。


「春待ちの猫さんのメッセージ、少し眩しかったです。ちゃんと怖がって、ちゃんと会いに行って、ちゃんと言葉を渡したから。私にはまだできていないことを、あなたはしたんだと思います」


それは、ラジオに向けた言葉でありながら、ほとんど独白に近かった。


「……すみません」


小さく笑う。


「今夜は少し、喋りすぎましたね。春待ちの猫さん、本当にありがとうございました。たぶん今夜、あなたのメッセージに助けられたのは、後輩さんだけじゃなくて……私もです」


澪はそこでようやく、次の曲名を告げた。静かなピアノ曲が流れ始める。ヘッドフォンを少しずらし、澪は目を閉じた。心臓が、遅れて強く鳴っている。


こんなふうに自分の話をしたのは、いつ以来だろう。しかも、朝倉ナオとして。ラジオという、顔の見えない場所で。


そのころ。


同じ街の別の場所で、男は椅子にもたれたまま動かなかった。


薄暗い部屋に、デスクの上の小さなラジオ、開いたノート、書きかけの五線譜。パソコンの画面には音楽制作ソフトが開かれたままで、いくつものトラックが途中で止まっている。


ラジオから流れてきた澪の声が、まだ部屋の空気に残っている気がした。


「……そういうことか」


小さく呟く。


守るつもりだった。怖かった。その言葉だけで、七年間分の空白が全部埋まるわけじゃない。それでも、何も分からなかった頃よりはずっと近い場所まで来た気がした。


ラジオから流れてきた声が、また耳の奥に戻ってくる。低くて、静かで、少しだけ不器用な、あの声。かつて、「(はやて)」と自分の名前を呼んでいた声。


颯は机の上のハガキを手に取る。夜更けのリスナー。その名前の下に、静かに文字を書く。


『あなたのせいじゃないと思う人が、きっといる』


そこでペンが止まる。少しだけ迷って、また書き足した。


『少なくとも、ひとりは』


書き終えてから、颯はその一文を見つめた。本当なら、もっと書けた。たとえば、責めていないこと。たとえば、今も声を聞けば分かること。たとえば、ずっと忘れていなかったこと。けれど、それはまだ早い。今の澪に必要なのは、追いつめる言葉じゃない。


颯はペンを置き、ハガキを指先で軽く押さえる。


「……大丈夫だよ」


届くはずのない声で、そう言った。ラジオから流れる曲は静かで、やさしかった。


その夜、澪は放送が終わったあともしばらく、スタジオから動けなかった。喋りすぎた。そんな後悔は、少しだけあった。でもそれ以上に、不思議な感覚が残っていた。ずっと胸の奥に沈めていたものを、ほんの少しだけ外へ出したような感覚。


痛いのに、少しだけ息がしやすい。


帰宅してからも、春待ちの猫さんのハガキを何度も読み返した。ちゃんと言葉を渡した、という一文の前で、何度も視線が止まる。そして、その隣に置いたままの二通のハガキ――夜更けのリスナーからの手紙へ、自然と手が伸びた。


『七年前と同じ声だね、澪』


『声が、懐かしいと思いました』


どちらも短いのに、読むたびに胸の奥へ沈んでいく。澪は三通目が届くことを、怖いと思った。同時に、待ってしまっている自分にも気づいていた。

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