第3話 言葉は、残る
深夜二時。
今日も、スタジオの赤いランプが灯る。
ON AIR。
瀬川澪はヘッドフォンを整え、マイクの前でひとつ息を吸った。
「こんばんは。深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
卓上時計は、ちょうど2:00を指していた。
「眠れない夜って、どうして少しだけ、考えなくていいことまで考えてしまうんでしょうね」
少しだけ笑う。
「昼間ならやり過ごせることが、夜になると急に立ち止まってしまうことがある。今夜もそんなあなたと、静かに時間を過ごせたら嬉しいです」
ジングルが流れ、やわらかなギターの音がスタジオに満ちる。
澪は一枚目のハガキを手に取った。
「ラジオネーム、春待ちの猫さん」
その名前を口にした瞬間、ほんのわずかに指先に力が入る。先週、読んだ名前だった。後輩をきつく叱ってしまった。本当は守りたかったのに、泣かせてしまった。そう綴っていた人。
澪はハガキをめくる。
「『先週、メッセージを読んでくださってありがとうございました。あのあと、勇気を出して後輩に会いに行きました。正直、まだ気まずいです。ちゃんと許してもらえたわけでもありません。でも、"本当は守りたかった"と伝えました』」
澪の声が、ほんのわずかにゆるむ。
「『あのとき朝倉さんが、"あとからでも届く言葉があると思う"と言ってくれたので、逃げずに行けました。ありがとうございました』」
読み終えたあと、澪は少しだけ黙った。空調の音だけが、かすかに耳に残る。
「春待ちの猫さん、メッセージ、ありがとうございます」
いつもより、わずかに低い声で言う。
「……よかったですね」
短い言葉なのに、その一言を口にするまでに少しだけ時間がかかった。
「ちゃんと会いに行って、ちゃんと伝えたんですね。たぶん、それってすごく怖かったと思います」
澪は手元のハガキを見つめたまま、続ける。
「気まずさが消えるわけでもないし、言ったから全部元通りになるわけでもない。それでも、言わなかった後悔より、言ったあとの痛みのほうが、きっと少しだけ先に進めるんだと思います」
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「だから春待ちの猫さんが、その一歩を選んだこと、私はとても素敵なことだと思います」
ハガキをそっと机に置く。曲へつなぐはずだったのに、澪はすぐには次の言葉を口にできなかった。
春待ちの猫さんは、伝えたのだ。怖くても。遅くても。うまく許されなくても。
それに比べて、自分はどうだろう。
澪はマイクの先を見つめる。目の端に、赤いランプが静かに光っているのが見える。ラジオの向こうには誰かがいる。顔は見えない。それでも、たしかに誰かが聴いている。
だから本当は、こんなことを言うべきじゃないのかもしれないと思った。パーソナリティが、自分の感情を持ち込みすぎるべきじゃない。澪はそういう線引きを、ずっと守ってきた。
けれど今夜は、うまく飲み込めなかった。
「……今夜は、少しだけ」
澪は小さく息を吸う。
「少しだけ、私の話をしてもいいですか」
言ってしまってから、喉の奥がかすかに熱くなる。でも、もう止めなかった。
「私も、誰かを傷つけたことがあります」
まっすぐマイクに向かって言う。
「守るつもりで言った言葉が、結果としてその人の居場所を奪ってしまったことがあるんです。悪意はありませんでした。少なくとも、そのときの私はそう思っていました。本当は庇いたかった。守りたかった。そう言えば聞こえはいいけれど……たぶん、半分は違いました」
澪は目を伏せる。
「怖かったんだと思います。ちゃんと向き合って、自分の言葉で引き受けることが。だから、その場をやり過ごせるような言い方を選んだ。その結果、傷つけたくなかった人を、いちばん傷つけました」
スタジオは静まり返っている。誰もいない調整室。積まれた資料。閉じたガラス。音を吸う壁。その静けさが、今夜だけは少し心強かった。
「言葉って、便利なんですよね。ちゃんと選べば、きれいにも聞こえるし、賢くも聞こえる。その場を収めることだってできる」
「でも、ときどき」
そこで少しだけ声が揺れた。
「ときどき、いちばん大事なものから先に、こぼれていくことがある」
短い沈黙が落ちる。澪は目を閉じた。
春待ちの猫さんは、会いに行った。自分はまだ、何も言えていない。謝ることも。説明することも。許してほしいと願うことすら、きっとどこかで諦めてしまっていた。
「だから」
澪はゆっくりと言う。
「春待ちの猫さんのメッセージ、少し眩しかったです。ちゃんと怖がって、ちゃんと会いに行って、ちゃんと言葉を渡したから。私にはまだできていないことを、あなたはしたんだと思います」
それは、ラジオに向けた言葉でありながら、ほとんど独白に近かった。
「……すみません」
小さく笑う。
「今夜は少し、喋りすぎましたね。春待ちの猫さん、本当にありがとうございました。たぶん今夜、あなたのメッセージに助けられたのは、後輩さんだけじゃなくて……私もです」
澪はそこでようやく、次の曲名を告げた。静かなピアノ曲が流れ始める。ヘッドフォンを少しずらし、澪は目を閉じた。心臓が、遅れて強く鳴っている。
こんなふうに自分の話をしたのは、いつ以来だろう。しかも、朝倉ナオとして。ラジオという、顔の見えない場所で。
そのころ。
同じ街の別の場所で、男は椅子にもたれたまま動かなかった。
薄暗い部屋に、デスクの上の小さなラジオ、開いたノート、書きかけの五線譜。パソコンの画面には音楽制作ソフトが開かれたままで、いくつものトラックが途中で止まっている。
ラジオから流れてきた澪の声が、まだ部屋の空気に残っている気がした。
「……そういうことか」
小さく呟く。
守るつもりだった。怖かった。その言葉だけで、七年間分の空白が全部埋まるわけじゃない。それでも、何も分からなかった頃よりはずっと近い場所まで来た気がした。
ラジオから流れてきた声が、また耳の奥に戻ってくる。低くて、静かで、少しだけ不器用な、あの声。かつて、「颯」と自分の名前を呼んでいた声。
颯は机の上のハガキを手に取る。夜更けのリスナー。その名前の下に、静かに文字を書く。
『あなたのせいじゃないと思う人が、きっといる』
そこでペンが止まる。少しだけ迷って、また書き足した。
『少なくとも、ひとりは』
書き終えてから、颯はその一文を見つめた。本当なら、もっと書けた。たとえば、責めていないこと。たとえば、今も声を聞けば分かること。たとえば、ずっと忘れていなかったこと。けれど、それはまだ早い。今の澪に必要なのは、追いつめる言葉じゃない。
颯はペンを置き、ハガキを指先で軽く押さえる。
「……大丈夫だよ」
届くはずのない声で、そう言った。ラジオから流れる曲は静かで、やさしかった。
その夜、澪は放送が終わったあともしばらく、スタジオから動けなかった。喋りすぎた。そんな後悔は、少しだけあった。でもそれ以上に、不思議な感覚が残っていた。ずっと胸の奥に沈めていたものを、ほんの少しだけ外へ出したような感覚。
痛いのに、少しだけ息がしやすい。
帰宅してからも、春待ちの猫さんのハガキを何度も読み返した。ちゃんと言葉を渡した、という一文の前で、何度も視線が止まる。そして、その隣に置いたままの二通のハガキ――夜更けのリスナーからの手紙へ、自然と手が伸びた。
『七年前と同じ声だね、澪』
『声が、懐かしいと思いました』
どちらも短いのに、読むたびに胸の奥へ沈んでいく。澪は三通目が届くことを、怖いと思った。同時に、待ってしまっている自分にも気づいていた。




