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君の声で終わる夜  作者: 廻野 久彩


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第2話 夜更けのリスナー

深夜二時。


スタジオの赤いランプが灯る。


ON AIR。


瀬川澪はヘッドフォンの位置をそっと直し、マイクの前に姿勢を整えた。目の前の机には、今夜読む予定のハガキが数枚並んでいる。その端に、昨日届いたあの一枚が置かれていた。


『七年前と同じ声だね、澪』


紙に書かれたその一文は、昨夜からずっと澪の頭を離れなかった。


「こんばんは」


いつも通りの声を作る。卓上時計の表示は、2:00。


「深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」


澪は軽く息を吸う。


「眠れない夜って、ありますよね。誰かに話すほどでもないけど、ひとりで抱えていると少しだけ重たいこと」


ミキサーのランプが静かに光る。スタジオの空気はいつもと同じはずなのに、今夜だけ、わずかに違って感じた。机の端に置いたハガキが、そこにあるだけで気配を持つ。


「この番組は、そんな夜のための場所です。眠れないあなたのそばに、声だけでも届きますように。今夜も、よろしくお願いします」


ジングルが流れ、静かなピアノの曲がスタジオを満たした。


澪はヘッドフォンを少しだけずらす。ガラスの向こうには暗い調整室。誰もいない椅子。積まれた資料。東京のキー局にいた頃のスタジオは、もっと明るくて、人の声が絶えなかった。今は違う。この街の小さなFM局。深夜二時。誰の顔も見えないラジオ。


それでも、誰かが聴いている。


そう信じて、澪は三年間ここで喋ってきた。朝倉ナオという名前で。その名を名乗るとき、澪は少しだけ肩の力を抜くことができた。本名の瀬川澪は、テレビのニュース番組で呼ばれていた名前だ。過去の出来事と一緒に、どこか遠い場所へ置いてきた名前。


だから。


本名を呼ばれることは、ないはずだった。


番組はいつも通り進んでいく。


「ラジオネーム、春待ちの猫さん」


澪はハガキをめくる。


「『会社で、後輩をきつく叱ってしまいました。本当は守りたかったのに、結果的にその子を泣かせてしまって……』」


澪の指先が、ほんの一拍だけ止まる。それから、いつもの声に戻る。


「春待ちの猫さん、言葉って、思った以上に残るんですよね。でも、だからこそ、あとからでも届く言葉もあると思います」


リスナーから届いたメッセージを読み、曲を流し、夜の相談に短く答える。深夜ラジオは、静かに呼吸するみたいな番組だ。大きな事件も派手な言葉もいらない。


けれど、次のハガキを手に取ったとき、澪の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。


差出人、夜更けのリスナー。


昨日と同じ名前だった。


読むべきか、読まないべきか。ほんの数秒だけ迷う。ラジオは、届いた声を拒まない場所だ。だから澪は、ハガキを開いた。


「ラジオネーム、夜更けのリスナーさん」


ほんの少しだけ慎重な声になる。


「メッセージ、ありがとうございます」


紙の文字を目で追う。そこに書かれていたのは、短い言葉だった。


『初めてこの番組を聴きました。』


澪の呼吸が、わずかに止まる。


『声が、懐かしいと思いました。』


スタジオの空気が、少しだけ静かになる。


『夜のラジオは久しぶりです。また聴きに来てもいいですか。』


それだけだった。短い。それなのに、どこか温度がある。澪は一瞬だけ目を閉じ、すぐにマイクへ戻る。


「夜更けのリスナーさん、もちろんです。この番組は、眠れない夜のための場所ですから」


ほんの少しだけ間を置く。


「また、いつでも来てください」


澪はハガキを机の端に置いた。その動作は、普段よりほんの少しだけ丁寧だった。


番組はそのまま続いていく。曲が流れ、メッセージが読まれ、時間は静かに進む。けれど澪の頭のどこかには、あの言葉が残っていた。


懐かしい。


その一言が、胸の奥に小さく沈んでいる。


放送終了のジングルが流れ、赤いランプが消えた。澪はヘッドフォンを外し、ゆっくり息を吐いた。机の上には、二枚のハガキ。夜更けのリスナー。澪はそれを見つめる。


「……誰?」


小さく呟く。もちろん、答えはない。スタジオには、空調の音だけが静かに流れていた。


そのころ。


同じ街のどこかで、男がラジオのボリュームを下げた。部屋は薄暗く、窓の外には夜の街の灯りが遠くに見える。テーブルの上には小さなラジオと数枚のハガキ、その横には開いたままのノートと書きかけの五線譜。パソコンの画面には音楽制作ソフトのトラックがいくつも並んでいた。


男はしばらく動かず、ラジオを見ていた。それから、静かに息を吐く。


「……やっと見つけた」


低い声だった。


七年間。探していたわけじゃない。探す方法なんて、なかった。それでも、偶然つけたラジオから流れてきた声を聞いた瞬間、分かった。間違えるはずがない、あの声を。


男は指先でラジオを軽く叩き、小さく笑う。


「声だけでもいい」


それでいいと思っていた。少なくとも、昨日までは。


けれど。机の上には、もう一枚のハガキが置かれていた。まだ出していない、書きかけのままのハガキ。男はペンを手に取り、少しだけ考える。それから、静かに続きを書いた。


夜更けのリスナー。


その名前の下に、短い一文を。


『澪へ。』

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