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君の声で終わる夜  作者: 廻野 久彩


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第1話 深夜二時の声

深夜二時。


街はほとんど眠っていた。


駅前のロータリーにはタクシーが一台停まっているだけで、コンビニの白い明かりだけが不自然に浮いている。

昼間は人の出入りが絶えないこの通りも、今は音をなくした水槽みたいに静かだった。


その通りの外れに、小さな地方FM局はある。

ビルの二階。薄暗い廊下の先にあるスタジオで、赤いランプが点灯した。


ON AIR。


瀬川澪は、耳にかけたヘッドフォンの位置を指先で整え、マイクの前でひとつ息を吸った。ガラスの向こうに誰かがいるわけではない。

深夜枠は少人数で回しているし、この時間帯はほとんど一人で完結する。

けれど、ランプが点いた瞬間だけは、今も少し背筋が伸びる。


それは昔から変わらない。


「こんばんは」


静かなスタジオに、自分の声がすっと落ちていく。


「深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」


卓上時計のデジタル表示は、ちょうど2:00を示していた。


「眠れない夜って、ありますよね」


澪は、少しだけ口元をゆるめる。


「誰かに話したいほどじゃないけど、でも、一人で抱えていると少しだけ重いこと。そんな気持ちが、どうしようもなく浮かんでくる夜」


ミキサーのランプが規則正しく光っている。空調の低い音。機材の熱。閉じた空間に満ちる、夜特有の静けさ。


「この番組は、そんな夜のための場所です」


ほんの少し間を取ってから、澪は続けた。


「眠れないあなたの手元に、声だけでも届きますように。今夜も、よろしくお願いします」


ジングルが流れ、柔らかなピアノのイントロがスタジオに満ちた。


ヘッドフォンを少しずらす。ガラスの向こうには、暗い調整室。使われていない椅子。積まれた資料。東京の大きな局にいた頃は、もっと人がいた。ディレクターがいて、作家がいて、タイムキーパーがいて、常に誰かの視線と判断の中で喋っていた。


今は違う。


この街に来て、もうすぐ三年になる。


地方の小さなFM局。深夜二時。顔の見えないリスナーと、声だけでつながる時間。


澪はこの時間が嫌いではなかった。むしろ、好きだった。


誰にも見られていないようでいて、誰かに届いているかもしれない。その曖昧さが、今の自分にはちょうどよかった。


朝倉ナオという名前も、そうだ。

最初に局から「本名ではなく、放送名でやっていきませんか」と提案されたとき、少しだけ迷った。


澪は一度だけ考えて、すぐに頷いた。

過去に全国区で顔も名前も出ていた人間なら、むしろそのほうがいいだろう、と思ったのだ。


朝倉ナオ。


その名で喋るときだけ、少しだけ別の人生を借りているような気がした。


放送は静かに進んでいった。


リスナーから届いたメッセージを読み、季節外れの恋の相談に短く答え、眠れない夜に合いそうな曲を流す。いつも通りの、穏やかな三十分。感情を強く揺らさないように、けれど冷たくはならないように。自分の声の温度を、澪はずっと知っている。


その温度で人を安心させることも、逆に傷つけることも、知ってしまっている。


だからこそ、言葉を選ぶ癖がついた。


言葉は、残る。

思った以上に、深く残ってしまうことがある。


放送終了のジングルが流れ、赤いランプが消えたとき、澪はようやく小さく息を吐いた。


「……お疲れさまでした」


誰もいないスタジオで、習慣のように呟く。


返事はない。


それでも、こういう独り言はやめられなかった。


簡単に片づけを済ませ、局を出る。三月の終わりの夜気はまだ少し冷たく、コートの襟を軽く寄せた。コンビニでブラックコーヒーを買い、人気のない道を歩く。深夜番組の帰り道はいつも同じだ。信号、コンビニ、横断歩道、住宅街。世界から少しだけ切り離されたみたいな静けさ。


マンションに着き、郵便受けを開ける。


番組宛ての転送分が、何通か入っていた。


いつものことだった。リスナーからのハガキは、局にも届くし、事前に振り分けられて自宅に回されることもある。澪は封筒やハガキを抱えたまま部屋に戻り、コートを脱いで、ダイニングテーブルの上にそれらを並べた。


明かりをつけた部屋は静かだった。


一人暮らしには慣れている。音がないことにも、帰ってきても誰もいないことにも、とっくに慣れたはずだった。


コーヒーの蓋を開け、ひと口飲む。

少しぬるくなったコーヒーをテーブルに置き、届いたハガキに目を通し始めた。


春から転職することになった人。別れた恋人のことをまだ忘れられない人。子どもが熱を出して眠れず、たまたまラジオをつけた人。寄せられる言葉の多くは、夜にしか零れない種類のものだった。


澪は一枚ずつ読み、必要そうなものを分けていく。


そのとき、不意に指先が止まった。


一枚だけ、少し違う。


ほかは番組の投稿フォーム経由で印刷されたものや、よくある可愛らしい市販ハガキだったのに、その一枚だけは、簡素な官製ハガキに手書きの文字で宛名が書かれていた。


どこか、古い手紙みたいだった。


宛先は番組名と局名。そこまでは普通だ。


けれど、差出人欄に書かれていた名前を見て、澪は小さく眉を寄せた。


夜更けのリスナー。


ラジオネームとしては、珍しくない。むしろ深夜番組にはよくある種類の名前だった。


澪はハガキを裏返した。


そこに書かれていた文は、たった一行だった。


『七年前と同じ声だね、澪』


澪は、息を止めた。

視線が、その一文の上で縫い留められたみたいに動かない。


数秒遅れて、心臓が一度だけ強く鳴った。


「……どうして」


乾いた声が漏れる。


朝倉ナオ。


この番組で澪が名乗っているのは、その名前だけだ。本名を出したことはない。局のプロフィールにも、本名は載っていない。リスナーが知るはずがない。


なのに。


「どうして……私の本名を知ってるの」


もう一度、ハガキを見る。


見間違いではない。


澪。


呼び捨てだった。


リスナーから届くメッセージでは、いつも「朝倉さん」か「ナオさん」だ。こんなふうに、まっすぐ名前だけを書かれたことはない。


しかも――七年前。


その数字が、ゆっくりと胸の底に沈んでいく。


七年前。


その言葉に、意味がないはずがなかった。


指先が、わずかに冷える。ハガキを持つ手に少しだけ力が入る。紙の端が、かすかにたわんだ。


……誰?


そう考えるより先に、もっと曖昧な感覚が胸の奥をかすめた。


知っている気がする。


澪ははっとして、首を振った。


「……まさか」


そんなはずはない。


考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。たまたまどこかで本名を知ったリスナーかもしれない。昔の経歴を掘れば、名前に行き着くことだって不可能じゃない。全国放送に出ていた時期もあるのだから。


でも。


それでも。


七年前と同じ声だね。


その一文だけは、偶然で片づけられなかった。


澪は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。テーブルの上のコーヒーから細く湯気が上がって、それもやがて消えていく。時計の秒針だけが、静かな部屋にやけにはっきり響いていた。


朝倉ナオとして過ごしてきた三年の夜に、急に別の名前で扉を叩かれたような気がした。


それは、閉じたはずの過去だった。

見ないふりをして、聞こえないふりをして、ずっと遠ざけてきた時間。

なのに、たった一枚のハガキが、それを簡単に引き戻してしまう。


澪はそっと目を閉じた。


まぶたの裏に浮かんだのは、顔ではなかった。


先に思い出したのは、声だった。


低くて、静かで、少しだけ不器用な声。

名前を呼ぶときだけ、ほんのわずかにやわらかくなる声。


胸の奥が、小さく軋む。


澪はすぐに目を開け、ハガキを裏返した。


差出人、夜更けのリスナー。


それ以上のことは、何も分からない。


けれど澪はまだ知らなかった。


このハガキを書いたのが、七年前に自分が手放した男だということを。

そして、この一通が、止まっていた時間を静かに動かし始めることも。


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