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 青年はお茶を出すと、自分も向かい側に腰かけた。

 少しだけ警戒してしまう。

「お話しです。ひとりは退屈です」


 曖昧に返事をすると、青年はひとりで自由気ままに喋り出した。

 お客さんから聞いた話、変わった団体客。小耳に挟んだ内地の文化にどう思ったか。


「ワタシの日本語、どうですか?」


「へ?」


「発音の練習です。喋り方が固いと言われます」


 ずっと喋りっぱなしだったのに、急に目尻を下げた姿が、まるできゃんきゃん鳴いていた子犬が、耳を垂らしてしょげかえるようだった。


 お腹のあたりから、くつくつと笑いが込み上げてくる。袖で口元を覆ってそれを隠した。


 だけど、笑っているのは相手に伝わっているだろう。


「そんなに下手ですか?」


「いえ。失礼しました」

 こんなに流暢にお喋りをしているのに、そんなことを気にしてしまうなんて。


「あなたのお話はとても楽しいですよ」

 そう言って袖を下ろして膝に置くと、青年は目を丸くした。口をパクパクさせる。


「どうしました?」

 小首をかしげて、問いかけた。だけど、青年からはしどろもどろな音声しか返って来ない。



 ふぅと細く長い息を吐くと、

「また、ここに来てくれますか?」

 と子犬のような目で訊いて来た。


 店の奥に連なる個室に視線を配ってから、

「ここは私のような者が来るお店なのでしょうか?」

 と問い返してしまった。


 奥座敷の個室に来るのは、きっと大人たちだろう。



「嫌でなければ、来てやってちょうだい」

 女将さんの声が割って入った。


 青年の話に夢中だったが、すぐ近くの席に女将さんも座っていた。


「この子、内地の話が好きなんですよ。公学校にも通っているんです。でも、学校もここも男ばかり。あなたのような娘さんが珍しいんでしょう」


「はあ」


「はい。内地の話はとても興味深いです。先生たちは、四季の話をします。ここにも四季はありますが、紅葉はありません。雪もありません」


 青年は残念そうに首を振った。


「ワタシは桜の話が大好きです。みんな、桜の話をします」


 その話を聞きながら、空っぽになった湯呑の底をぼんやりと眺めた。


 木枯らしが葉を揺らす変わる気配も、寒風吹きすさぶしんしんとした冷たい星空も、それを越えて訪れる薄紅色の絨毯も、きっと現地に来ているみんなが恋しい。


 ここまで大荒れの天気の変化が、日常的に起こるなんてこともない。


「あなたは、桜です」

 はきはきした青年の声に、思わず顔を上げた。


「桜?」


「はい。その着物がとても似合っています」

 ひゅっと、息が止まる気がした。酸素を求めて唇がわななく。


「どうしました?」


「あ、あの…ありがとうございます」


「どういたしまして」

 頭を下げると、青年も習ったことを復習するように頭を下げた。


 そして、「お茶がなくなりました。新しいお茶を淹れて来ます」と、湯吞を二つ持って席を立った。


 どうしてだろうか。顔が上げられない。


「その着物、次来るときも着ていらっしゃいな」

 組んだ指をもぞもぞと弄んでいると、女将さんの声にパッとそちらを見やった。


「へ?」


「娘のお古で悪いとは思うけどね、ほかに着る人もいないから、宝の持ち腐れなんですよ」


 左の袖を、右手でそっと撫でた。サラリとした柔らかい麻で織られた品。

「こんな上等なもの、いただけません」


「いいんです。でもね、一つ頼みがあるわ」

「はい」

「外地の人を、あまり怖がらないでちょうだい」

「……」

「私たち夫婦は早いうちにこっちへ来たけど、みんないい人ばかりですよ。

 うちのひとり娘も外地の人に嫁ぎました」


 ギョッとして、背中がのけ反る。女将さんは「やれやれ」とでも言いたげに鼻を鳴らした。


「内地の人間はみんな気位が高すぎるんですよ。もっと現地の人の声を聞いてみなさい。

 うちには昼は現地の人も来るから、学校帰りにでも寄ってちょうだい」


「学校帰りだなんて……」

 寄り道なんかしたら、お母様にもお父様にも叱られてしまう。


「着物の礼とでも言って、いくらでも理屈をこねればいいでしょう」


「……」


 針の上に乗った一枚板が、ぐらりぐらりと揺れる気がした。

 そんな不良みたいなこと、してもいいのかしら。


「あなたくらいの年齢なら、少し冒険してみるものですよ」


 ぼうけん……。


 口の中でその言葉を反芻する。


 父親の外地勤務で連れて来られたのも、十分冒険だと思っていた。


 慣れない風土も慣習も、内地ほど整っていない交通網や街路も、何もかもが不便で、早く内地に帰りたかった。


「お待たせしました」


 満面の笑みをたたえた青年が、盆に湯呑をふたつ乗せて戻って来た。そのまま椅子を引いて座り、ふぅふぅと冷ましてからすする。


「美味しいです」

 ぐるりと女将さんのほうに体を向けた。


「次はお茶請けがほしいです」


「まったく、そんな言葉ばかり覚えるんですから」



 壁を叩く音が、急速に遠ざかっていく。

 青年は窓に駆け寄って、戸板を引き開けた。


 肉厚な雲の塊は、まだ遠くて近いところにある。

 けれど、その隙間から強い日差しが天地に渡る光の帯をなした。



 あまりの眩しさに目がくらんで、手でひさしを作った。

 ひらりと袖が揺れる。


「本当に桜色です」

 振り返った青年が、それを見て、屈託なく笑った。


「いつか内地に行ってみたいです」



 いつも滝のような雲が去ると、心に濁りが残るようで辟易していた。


 だけど、窓から流れてくる塵ひとつない風が肺を洗っていく。


 外地の空気が気持ちいいと思ったのは、初めてかもしれない。


「……ここも、とても素敵です」

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