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中に入ると、食堂というより宴会用の料理店を兼ねているようだった。
入口に近い位置にはテーブルと椅子が整然と並んでいるが、その中央には通り道があり、奥に向かって長い廊下が続いている。
左右にはいくつもの扉。
天井からは等間隔に硝子でできたランプが下がり、扉ひとつひとつを照らし出していた。
個室になっているのかもしれない。
廊下の先にある階段に、すっと背筋の伸びた女性の姿があった。灯りはそこまで届かないけれど、おそらく女将さんだろう。
入口で立ち止まっていたら、手招きされた。
青年は一度振り返って、ついて来ているのを確認しながら廊下を進んでいく。
きまりが悪い気持ちがしながらも、いそいそとその背中について行った。
「大変だったわね、こんな降りようじゃ立往生でしょう」
「はい。中に入れていただいて助かりました」
ぺこりと頭を下げる。
女将は四十絡みといったところだろうか。狐を思わせる面長で、着物の袖をたすき掛けしており、俊敏なやり手夫人を思わせた。
「娘さんはどちらの子?」
問われて、父の仕事と居住区内の番地を伝えた。
「あらぁ。それじゃあお家の方も心配されてるわね。電話をしておいたほうがよさそうね」
「そんな、滅相もありません。ご迷惑をおかけしてしまいます」
「いいえ。ひと言連絡しておいたほうがいいわ。ついていらっしゃい」
言いしなに、女将さんは階段を上り始めた。
二階から上は住居になっているようで、上り框の向こうに廊下と広間が続いていた。
女将さんは廊下の先にある柱までいくと、電話を取った。
いくつか会話を交わしたあと、玄関に立ちっぱなしのこちらに向かって、
「交換所も混んでいるみたいね。少しお待ち」
と短く告げた。
それから受話器から手を離さず、「そんなところに立ってないで、早くお上がりなさい」とも。
「いえ。こんな姿で上がったら汚してしまいます」
と答えたところで、電話が繋がったらしい。
気持ちだけが右往左往していると、いつの間にかいなくなっていた青年が戻ってきた。
「これを使ってください」
新しい手ぬぐいだ。
ためらいがちに受け取りながら、再度、髪や着物を拭いていく。最後に足元も。
「そんなに気にしなくて構いませんよ。早く着替えたほうがいいわ」
電話から戻って来た女将さんは口早に言って、ずんずん先に進んでいく。
床にぽたりぽたりと雫を垂らしながら、慌てて追いかけた。
◇
襖を開けると、そこは立派な洋家具の揃った寝室だった。
だけど生活感はない。
寝台の布団も空気が抜けて、時に置き去りにされてしまったようにしぼんでいた。
女将さんが箪笥を引き出すと、樟脳の匂いがツンと立ち上がった。
「娘のお古で悪いけど、これを使いなさい。お母様にもお伝えしたから気にしないでしょうだい」
「ですが、そこまでしていただく訳には……」
「濡れ鼠を家に置いておけません」
「……」
家に入れたのは女将さんのほうではあるが、逆らってはいけないと思って部屋に足を踏み入れた。
女将さんが手に持っていたのは、淡い紅色の着物だった。
「わあ」
トトト。と駆け寄ってしまった。
「これお借りしてもいいんですか?」
「ええ。早く着替えなさいな」
「ありがとうございます」
深く頭を下げると、濡れた髪が顔にべしりと当たった。
女将さんは部屋の前で佇む青年の所まで行くと、「女の子が着替えるんですよ。閉めますからね」とピシャリと言って、自分も部屋を出て行った。
受け取った着物を広げると、胸の奥底からトクトクと胸が高鳴るのを感じた。
昼に洋品店で見た新作と同じ色だ。
柄こそは違うものの、それでも内地の女学生に人気の色は薄桃色だと新聞にあったから、今だけでも着られるのは嬉しい。
◇
大急ぎで、ずっと不快に張り付いていた袴と着物、襦袢も脱ぎ捨て、ぎゅうと胸に抱き締める。
出してもらった襦袢を身につけると、姿見の前に立ち…。そっと着物を胸の前にかざしてみた。
それから、ゆっくりと袖を通していく。
袖を揺らし、右を向き、左を向き、後ろ姿も確認して、口元が緩んでしまい、誰に見られる訳でもないのに、両手で隠した。
外は相変わらず白い。行きつく間もなく横殴りに窓を叩いていく。
それでも、その窓枠の向こうに、故郷の満開の桜を思い出した。
「着替えましたか?」
バチを叩くような女将さんの声に、ハッと我に返った。返事をして、自ら襖を開ける。
「なかなか似合うじゃない」
「おお。とても可愛いです」
「本当にお心遣いに感謝いたします」
「こんな天気だもの。家の前でずぶ濡れになっていたら気が気じゃありませんよ」
「お茶を用意しています。日本のお茶です。とても美味しいです」
青年は言って、階下のテーブル席に案内してくれた。
ここまで世話になっていいのかと気が引けたが、いま外に出たとしても無事に帰ることはできないだろう。