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こういうときの現地は白い。
洋品店を出たら、折り重なるような雲が立ち込めているのが見えて、煉瓦を蹴るように速足で急いだというのに、しだいに袴の裾が重たくなった。
一歩進む度に、肌にまとわりついてきて、足がもつれそうだ。
遠くで怒号が鳴ったかと思うと、あっという間に世界は白くなった。
屋敷のある通りに差し掛かる前に、足を止めるしかなかった。
通りにごった返していた人影はいつの間にか姿を消している。
家々の戸板も閉められ、ひっきりなしに煉瓦を叩く音だけが反響した。
諦めにも似た気持ちで、食堂の軒先に身を寄せた。
……まるで滝だわ。
白くけぶる向こう側を見上げ、そう思った。
いつ止むかは分からない。
袖の袂を捻ると、まとまった水が流れ出た。
ずいぶん吸い込んでいたらしい。
辺りを見回し、人がいないことを確認してから、膝を折って裾も絞った。
煉瓦通りを歩いて来たから泥はつかなかったものの、染みが残っては困ったことになる。
「お母様に怒られてしまうわ」
体を起こして体の前で手を重ねると、そんな言葉が口を突いて出て、掻き消えた。自分の声さえもよく聞こえない地鳴りのような音。
「現地に帰りたいな」
誰にも聞こえないからと、あえて独り言つる。
娘のうちに帰れるだろうか。それとも外地にいる日本人と婚姻を結ぶことになるのだろうか。
内地の流行服も、蒸し暑くて天候の変わりやすい外地では、その装いをきちんと保つだけでひと苦労。
今日は新作が出るという話を聞いて見に行ったけれど、一番心が弾んだ薄紅色の生地では、水を吸っては赤黒くなってしまうだろう。
色物の袴なんてもってのほか。
「ついてないわ」
親の仕事でこちらに来てからもう三年になる。
日本人居住区や学校で親しい友人はできた。
新聞や広告を持ち寄って、新作について話しては「きっと内地では流行遅れになっているわよ」なんて皮肉も出て、笑い合う毎日。
低く垂れこめる雲の向こう。内地には、きっとお洒落を楽しんでいる女の子たちがいるのだろうな。
ぼんやりと遠くを見上げながら、体に張り付く布地を不快に思った。
「――さん」
遠くのほうで、人の声が聞こえた気がした。だけど相変わらず滝のような音が世界を覆っている。
「お嬢さん」
轟音の合間を縫って明瞭に届いた声に、ハッとして振り返った。
◇
靄の中に、男の人が立っていた。
白いシャツに、生成り色のズボンをサスペンダーで吊っている。
身なりからすると内地の人のようだけど、目鼻立ちがしっかりしていて、外地の人にも見える。
少し歳上だろうか。
「これを使ってください」
差し出したのは手ぬぐいだった。
すぐには、受け取らなかった。
男性と二人きりも怖いし、もしも外地の人だとしたら、今度はお父様に叱られてしまう。
ぐっと息を殺して、目を逸らす。
警戒をあらわにした姿に、想いを察したようだ。それでも青年は引き下がらない。
「内地の人ですよね。安心してください。ワタシは、ここの食堂で働いています。
店主は内地の人です。お嬢さんを見て、女将さんが持って行けと言われました」
青年がついと視線を右に向ける。
一歩遅れておそるおそる視線だけを向けたら、そこは内地の人向けの食堂だった。
肩の力が抜け、ほうっと小さく息が漏れた。
「そのままでは風邪を引きます。拭いてください」
「あ、ありがとうございます」
青年は柔和な笑みを浮かべて、小さな手に手ぬぐいを乗せた。
まずは髪。それから肩と袖を順に拭いていく。
青年は、隣に並んで店の外壁に寄り掛かった。
「あの、こちらにお勤めなんですよね。汚してしまったので、洗ってからお届けします」
「気にしないでください」
のんびりと言って、受け取ろうと手のひらを出した。
「そういう訳にはまいりません。後日、店主の方にお預けいたします」
「内地の人は、細かいことを気にし過ぎます」
返す気がないと分かると、あっけらかんと、青年は笑った。
未だにごうごうと地面や屋根、窓を叩く音がするというのに、その笑い声だけはカラリと耳に届いた。
「それよりも、戻らなくてよろしいのですか?」
背を壁に預けたまま、青年は遠くの空を見上げた。
「まだしばらく止みません。今日は店じまいです」
「…………」
返事をしていいのか分からず、じり、と半歩だけ身を離した。
ボタボタ。とまとまった水が上から落ちてきた。
顔に跳ねて、思わず握ったままだった手ぬぐいを当てた。
振り仰ぐと、二階の窓から、きっちりと着物の襟を寄せた、中年の女性が肩をいからせているのが見えた。
窓を開けた弾みで、溜まった水が飛んだのかもしれない。
「あなたね。女の子をいつまでも軒先なんかに立たせておくんじゃありません。
中に連れて来なさい。まったく気がきかないんだから」
「ごめんなさい、女将さん」
青年は彼女を見上げて頭を掻いた。
それからこちらを見て、ついておいで、と顎で示した。
どうしようかしら。知らない男の人についていくなんて。
逡巡しながら窓を見上げると、
「私がいるから悪いようにはしませんよ。
体が冷えてしまうでしょう。早くお入り」
女将さんは、轟音の中でもはっきり聞こえるような声量で、でも安心させるようにそう言った。