♥️陽だまりの中の鼓動
温かい手に包まれている。覚えのある感触に、ゆっくりと意識が浮かび上がった。
「……ごめん。起こしちゃったね」
包帯越しの手が優しく撫でられる。そのぬくもりは、冷えていた心をじわりと溶かしていく。
寝ぼけまなこを擦り、声の主を見やる。そこには、さっきと変わらない姿のなっちゃん。隣には悟ちゃん――服はずぶ濡れで、肩口からは冷たい雨の匂いが漂っていた。濡れた髪先から雫がぽたりと落ち、畳に暗い丸を作っている。
「……なっちゃん。……それに、悟ちゃん?」
悟ちゃんはお仕事のはずなのにどうしてここに――そんな疑問も、二人の顔が見られた安堵がすべて覆い隠した。
「おはよう、葵。……遅くなってごめんね」
いまだ手を撫でてくれているなっちゃんの手に、もう片方の包帯巻きの手を重ねる。布越しに伝わる温かさと、その奥にある心臓の脈動が重なる。
「遅くなるも何もお仕事は? 服は濡れているし、何かあったのお?」
「仕事は……休みをもらったんだ。なんだか早く皆の顔が見たくなってね。早上がりさせてもらったんだよ」
そう朗らかに答える悟ちゃん。その言葉が心の空いた穴に、陽だまりの光がゆっくりと射すように溶け込んでいくようだった。
けれどその笑顔の奥には、微かな疲れの影が揺れていた。
「そうねえ、お休みをもらって正解だったかもしれないわねえ。悟ちゃん、なんだか疲れてそうだし」
「……そうだね。今日は色々あって疲れてたかもしれない。皆の顔が見たくなったのも、そのせいかな」
その言葉に、私はすぐ悟った。私の怪我を知り、迷わずここへ駆けつけてくれたのだと。そして、ここが最上家であることを思えば……ひと悶着があったのは想像に難くない。
「……ごめんねえ。私のせいでまた、迷惑かけちゃったみたいでえ」
「お母さんが怪我したからって、私たちが迷惑だなんて思うわけないじゃない。それにおじいちゃんも言ってたでしょ、『隣に立ってるだけじゃ意味がない。痛みを分かち合う』それが家族でしょ」
誇らしげに胸を張る声の奥に、ほんの小さな震えを感じる。同時にお父さんの残した言葉がこの子にも受け継がれていることに、胸の奥で小さな灯がともった。
「お母さんも、しっかりしなくちゃねえ。なっちゃんや、悟ちゃんばかりに負担はかけられないものねえ。それに優ちゃんだって、こんな頼りないお母さんじゃ、不安になるかもしれないしねえ」
自分の発した言葉でふと、部屋の静けさの中、息子の顔が浮かんだ。優ちゃんは夏休みで、朝早くから『尚理のうちに行ってくる』といって元気に飛んで行った。
……優ちゃん、今頃は何をしているかしら。雨が降っていたから、外で遊んでいることはないだろうけれど、尚理くんと夏休みの宿題でもしているのかもしれない。
とても聡い尚理くんとの宿題は、きっと捗っているだろう。
夕食は何を作ってあげようか。そんなことを考えながら、二人にも聞いてみる。
「今日の夕飯どうしようかしらあ……私、帰ったら優ちゃんにオムライス作ってあげようと思ってたのよ〜」
その瞬間、手を重ねているなっちゃんの手が僅かに強張った。太陽が陰り、部屋の空気がすっと冷え込み、窓をたたく風の音がやけに大きく響き、湿った空気が肌にまとわりついた。
なっちゃんと悟ちゃんが視線を交わす。悟ちゃんが頷き、一瞬視線を泳がせ、私を見る。唇がわずかに動きかけては止まり、浅く息を吐く。その間に、指先が膝の上でそっと動いた。言葉を探す沈黙が、部屋の空気をじわりと重くする。
「……そのことなんだけど……」
声は低く、途中で何度か途切れそうになりながら、ようやくこぼれ落ちた。
「葵には手の怪我がよくなるまで、ここにいてもらおうと思うんだ。仕事の方もしばらく休みをもらって、お義父さんのお墓参りにでも行こう。もちろん葵の気持ち次第だけど、お義父さんの残した家のことも考えなくちゃいけない、遺品の整理もまだだったろう?」
その言葉は、胸の奥に冷たい石を落とされたようだった。息が一瞬詰まり、指先から血の気が引く。あの家の匂い、埃をかぶった家具、父の声がまだ残っているような静けさ――すべてが一度に押し寄せ、胸の奥をざわつかせる。
自然と握る手に力が入る。なっちゃんの温かい手が大丈夫だよというふうに優しく握り返してくれる。
その優しさを感じながら視線を落とした瞬間、ガラス障子を指先で軽くたたくようなコツコツと控えめなノック音が聞こえた。
悟ちゃんの肩が、わずかにぴくりと動き、そっとそちらに視線を向ける。




