♦️声を超えた決意
――気配に気づいたのは、その影が動いてからだった。障子の影から静かに立ち上がる影は祖母だった。いつからそこにいたのか、私にはわからなかった。
「ううむ、そうは言ってもな。血が薄くなってしまっては家が傾くかもしれぬ。それにうちには家を継ぐ男児が生まれておらぬ。新も励めばよいものを仕事に明け暮れておるしな……」
そこでふと外を見ると、父の姿が見えた。雨の中ずぶ濡れで走ってこちらへと向かってきている。私は安堵を覚え、めまいを感じる。父が迎えに来てくれた。母と私を――その事実が冷えていた心を溶かしてくれる。
荒い息を吐き、ずぶ濡れのまま縁側にあがる父に対し、布巾を差し出す侍女さん。それを押しのけ、座敷に入って私の前へ立つ父。
「おい、糞親父! 俺の家族を攫うとはどういう了見だ! あぁ!?」
父の声が屋敷の静けさを裂いた。私は思わず息を呑み、緩みかけた背筋がひやりとした。普段おとなしくも優しい父が、ああも感情をあらわにし、人を口汚く罵るのは見たことがない。
父の怒りに、祖父は微笑していた。けれどその笑みには、喜びも怒りも感じなかった。ただ何も感じていないような静けさだけがあった。それが私には何よりも怖かった。
「悟か、なあに、優助の娘と菜月を良い環境で看病するだけの話だ。それに、孫の様子を気にせぬ爺がどこにおる?」
『良い環境』――その言葉に、私はなぜか寒気を覚えた。
祖父の言葉は、いつも正しくて、どこか遠い。私は早くここから母を連れて逃げ出したかった。
「看病だと? 勝手に連れ出しておいて、よくそんな口が利けるな!」
「大きな声が聞こえたと思ったら、悟、帰ってきたのね。おかえりなさい。葵さんは今はうちの離れで眠っているわ。うち専属の医者に処置してもらっているから心配はいりません。あなたは少し、頭を冷やしなさい。菜月ちゃんが怯えているでしょう?」
おばあ様の言葉を受け、父と目が合う。数瞬見つめ合った後に目を逸らされる。ぎゅっと握りしめられた拳には血が滲み、真新しい畳に一滴の暗い染みを作った。
前髪で隠れて見えないが、父の表情には疲労と混乱の色が濃かった。逸らされた目線の先は何を見ているのか、母や私ではない何かを見ているようだった。
「……わかり……ました。葵はしばらくここへ預けます。ですが菜月は連れて帰ります。そこだけは譲れません。葵も怪我の具合がよくなり次第連れて帰りますので、俺へ直接連絡をください」
父の声は震えていた。けれど、その震えが私には、何よりも強く感じられた。
その言葉と同時に固まっていた肩の力が抜けてしまった。
そして私は、父の背を見ながら、初めて“守られている”という感覚を知った。




