♦️言葉を抱いて、母を抱く
ここはマンションの6階、タクシーが来るまで5分とちょっとだろうか。それまでに1階のエントランスまで行かなくてはいけない。
母を助け起こし、肩を支えながら、ゆっくりと玄関へ向かう。
廊下を一歩一歩、歩くたび、母の足元がふらつく。けれどその重みが、そこにいてくれるという証明で、私を支えにしてくれている。そんな事実が少しだけ誇らしかった。
玄関の前で立ち止まり、母がぽつりと呟く。
「ごめんねえ、なっちゃん。……いつも迷惑ばかりかけて」
「そんなことないわよ。おじいちゃんが亡くなって一番悲しいのはお母さんなんだから」
母は、おじいちゃんの手ひとつで育てられた。だから、あの人の言葉が母の中に根付いている。そんなおじいちゃんは一か月ほど前に鬼籍に入った。
おじいちゃんとの積み重ねてきた思い出は、私には到底届かないくらい、きっと深くて濃いのだと思う。それでも私はおじいちゃんとの思い出を忘れない。
母の肩を支えながら歩きながら、ふと、あの声が胸に蘇った。
小さい頃、大きな手で私の頭をなでながらおじいちゃんはよく言っていた『菜月は利口だから、おじいちゃんの言うことが分かるかもしれねえな。支え合うっていうのは、隣に突っ立ってるだけじゃ意味がねぇ。転びそうなときに手を取ってやる。転んだ時には助け起こし、痛みを分かち合う、それが真っ当な人間ってもんだ』
あの大きな手で、母も何度も頭をなでられていたのだろうな……。
おじいちゃんの言葉を胸に抱きながら、私は母の肩を支えて通路を歩く。途中で同じ階のおばさんに心配そうに声をかけられるが「すみません、急ぎなので……!」と一言、頭を下げてエレベーターのボタンを押す。扉が閉まり、静かな音とともに、気持ちも少しずつ沈んでいく気がした。
母は壁にもたれかかるようにして、目を閉じていた。
その顔には痛みと疲れと、少しの安堵が混ざっているように見えた。
エントランスに着くと、外気は蒸し暑く、じっとりと汗をにじませた。雨は降っていないが、風はいまだ強く。雲は重たい灰色に覆われていた。
タクシーはもうエントランスに着いており、タクシー運転手は恭しく一礼し「お待ちしておりました、葵様、菜月様」と言いドアを開けて乗車するように促す。
「座席が血で汚れるかもしれません。その分のクリーニング代はお支払いしますので、どうか病院へ乗せていってください」
運転手は静かに頷き、「ご安心ください。上の方から話を承っておりますので、お気になさらずご乗車ください」と一言。
母を支えながら共に乗車すると、車が静かに発進する。母の肩を抱き「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。
窓の外では風にあおられながらも、暗い雲の下を飛ぶ人たちの姿が見えた。
雨がぽつぽつと降り始め、先ほどの運転手との会話を思い出す。私は電話口では苗字しか名乗っていなかったのにも関わらず、運転手は私たち二人の名前を知っていた。それに、『上の方から話を承っている』などと言われれば分かってしまう。……おじい様だ。




