♥️赤い涙に染まる記憶
なっちゃんが足早に部屋を出ていく。……残された温度が、遠ざかっていくような感覚に襲われる。
「……お父さん……」
窓の外では風が唸りを上げている。けれど、この部屋の中は、あまりにも静かだった。
一か月前に父が亡くなった、63歳という若さで私を残して去った、たった一人の父。私を男手一つで育ててくれた優しい父。死因はくも膜下出血。近所の人が訪ねていくと廊下で倒れていたのを発見されたそうだ。死に顔は穏やかで苦痛はほとんどなかったと、お医者さんは言っていた。
葬式は最上家の協力を受けて、大々的に執り行われた。父は生前たくさんの功績を残してきた。これまでは魔素管という使い捨ての電池の代替品しかなかった時代に、魔力を蓄えることのできる『魔蓄槽』を開発した。それが世界中の暮らしを大きく変えた。そのほかにも父が残していった物はあまりにも大きすぎた。
――まだ、一緒にいられると思っていた。なっちゃんや優ちゃんの成長を一緒にみられると思っていた。
「お父さん……お父さん……」
こぼれた涙は、床の小さな血だまりに広がって赤く染まる。涙はとめどなく流れゆっくりと、着実に赤を広げていく。
風で軋むように揺れるガラス戸を目にする。その瞬間、胸の奥で固く結ばれていた糸が、ふっとほどけた。
――あの日も風が強かったな。
姿見で学生服の乱れがないかチェックする。問題はない。湿り気のある風に雨の匂いを乗せ、家の中に吹き込んでくる。せっかく整えた学生服が乱れてしまった。この風だ、仕方がないと思って出掛けようとしたとき――
「行ってらっしゃい」
温かい父の言葉が後ろからかかる。私は笑顔で「行ってきます」といって出ていくが、父もそれに倣ってついてくる。
「どうしたの?」
問いかける私に父は「なあに、そこまで見送るだけさ」と、あっさりと言ってくれる。私は照れ臭くなって早足になる。角を曲がるところで父が足を止める。
「行ってらっしゃい」
2度目の行ってらっしゃいを背に、私は通学路を歩く。父がまだそこにいる気がして振り向くと、やっぱりいてくれた。大丈夫だよ、というように大きく手を振ってくれた。私はそれが嬉しくなって、何度も何度も振り返った。
そんな私を父は呆れるでもなく、ただ笑顔で姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
あの朝のことを思い出すたびに、胸が温かくなる。
でも、同時に、冷たくもなる。
もう二度と、あの「行ってらっしゃい」は聞けないのだから……。
――ガシャンという大きな音とともに現実に引き戻される。ガラスの破片が床に散らばる。まるで、私の心が砕けた音のようだった。とたん、吹き込んでくる風がカーテンを揺らす。雨が近い。吹き込む空気から雨の匂いを感じ取り、また当時のことを思い出す。
ふっと視界が滲む。気がつけば、私はまだあの日の朝にいる。落ち込んでばかりで、仕事もままならず、魔導具の納品も滞っている。乾いた涙を拭い、腰を浮かせようと手を付いたところで両手に激痛が走る。真っ赤に濡れた両の手の包帯には、幾つもの金属片が刺さっていた。私が不甲斐ないばかりに、なっちゃんや優ちゃん、悟ちゃんにまで迷惑をかけている。支えてもらってばかりで、本当に情けない。いい加減前を向かなくてはいけない。そうは分かっていても、心に空いた穴には何で埋めたらいいのだろうか……。
そう考えていたところで、床をスリッパが擦る音が近づいてきて、襖がゆっくりと開かれた。




