♦️灯りの消える瞬間
弟たちの笑い声を背に、冷蔵庫の野菜室を開ける。ひんやりとした空気が、中から漏れ出る。土のにおいがかすかに漂ってくる。レタスを軽く持ち上げながら、野菜室を見渡す。トマトにキャベツ、じゃがいも。ハンバーグカレーに入れる人参と玉ねぎがないわね。ナスも……まあ、尚理くんの好み次第よね。
――しまった! お肉は牛ひき肉だけじゃたりない! カレーに入れるお肉も必要だわ!
……尚理くんは何カレーがいいかしら?
……直接聞こう。
エプロンを腰に当て、結びを作る。結び目を作る指先に、母の手を縛った記憶が一瞬よぎった。
弟の部屋の扉を叩く。普段はノックなんてしないが、今日は尚理くんがいる。最低限の礼は尽くさないといけない。笑い声が途絶え、中から「なにー?」というけだるそうな弟の声が返ってくる。
扉を開けると、床で片膝を立てて座っている尚理くんに、だらしなく足を投げ出している弟。その足の包帯に目が行った。
「――あんた、その足どうしたのよ!?」
思わず、大きな声が出てしまった。
母の怪我を連想させる包帯に、体がこわばり、心臓が縮む感覚を覚える。
「片付けるときに、金属片を踏んずけちゃったんだよ。別にもう痛くないし、そんなデカい声ださないでくれる?」
事もなげに言う弟。尚理くんはというと、呆れたように苦笑して頬を搔いている。
「本当に大丈夫なのよね?」
母の姿が頭から離れず、再度問いかける。
「しつこいなあ、大丈夫だって」
こっちの気も知らないで、全く暢気なものだ。――考えだしたら、段々とムカついてきた。胸の奥がささくれ立った。
「お姉さんも心配して言ってるんだよ。お袋さんも大変だったみたいだし、そこは分かってあげろよな」
尚理くんという第三者の言葉を受けて、眉をひそめ、ため息をこぼすと一言、ぼそりと「……悪かったよ」と謝った。
普段からこう素直なら、本当に助かるんだけど……。
「それで姉ちゃん、僕に何か用があったんじゃないの?」
「ああ、それね。あんたには用はないわよ。尚理くんに聞きたいことがあってきたの……。尚理くんはカレーに入れるお肉は何がいいかしら? それと、カレーにナスが入ってても大丈夫? 苦手だったら抜くから」
腰を曲げ、両ひざに手をついて問いかける。
尚理くんはこちらに向き直り、体勢を正座に変え、口を開きかけ――声を発したのは弟だった。
「尚理はチキンカレーが好きだよ。でも、僕の今日の気分はビーフかな」
じろりと睨みつけ、喉の奥が熱くなり、「あんたには聞いてない」とその言葉を一蹴する。
「ごめんね、優が口を挟んじゃって……それで、尚理くんはどうかしら?」
「優の言う通りチキンカレーが好きですね。ナスは入ってても大丈夫です。優はそこまで好きじゃなさそうですけど、僕は好きなので入れてもらえると嬉しいです」
「そう、よかった。じゃあナスも入れるわね」
尚理くんに微笑んで、最後に弟に釘を刺しておく。
「尚理くんがいる間に夏休みの宿題を一つは片しなさい。じゃないと、今晩の夕食の品が一つ減るからね」
ポカンとしている弟と、対照的に尚理くんは必死に笑いをこらえているようだった。
その様子に、先ほどまでの弟の態度への私の溜飲が下がる。
後ろ手に扉を閉め、深く息をつく。そのまま扉に背中を預け、急いで携帯端末を操作する。父に足りない食材を書き連ね、メッセージを飛ばす。
――すると、すぐに『了解』と短く返事が返ってきた。
さて、サラダでも作りましょうか……。
キッチンへ戻り、手を洗う。……手拭き用のタオルがない。まあいいか、後で替えよう。エプロンで手を拭く。
冷蔵庫の野菜室から、レタス、キャベツ、トマト、じゃがいも、ナスを取り出す。
うちでいつも使っているサラダ用の透明な皿と、ボウルを四つ食器棚から取り出す。それぞれのボウルに水を張り、一つには塩を振っておく。
レタスを覆っているラップを外し、外側の茶色に変色している葉を取り除き、三角コーナーへ放る。一枚、また一枚と剥いで丁寧に水で洗っていく。……ナメクジだけは出てきませんように、と祈りつつ続ける。――剥き終わった葉を、水にさらす。
キャベツもレタス同様に一枚一枚、丁寧に処理していく。それらを重ねてくるくると巻いて、ロール状にする。ここから千切りにしていく。トントントン、と軽やかな音がまな板に響く。
――よし、こんなものね。
千切りキャベツも、レタスとは別のボウルにさらしておく。
トマトは半分に割って、ヘタ部分を切り取る。果肉がつぶれないように六等分にして、まな板の端の方によけておく。
じゃがいもは、ほかの野菜より念入りに洗う。丁寧に撫で、土を落としていく。爪の間に土が入る不快感も慣れたものだ。じゃがいもの芽は、包丁の角を使って、ひとつずつくり抜いていく。皮むきは包丁を固定してじゃがいもだけを回す――こっちのほうが早い。むき終えたら一口大に切って、水を張ったボウルにさらす。
レタスをざるに上げて水気を切る。手で適当にちぎり、皿にふんわり盛りつける。
ナスはヘタを切り落とし、輪切りにして、塩を振ったボウルにつけておく。あくが抜けるまで、そっとしておけばいい。
……しばらく、この静けさに身を預ける。
弟たちの笑い声も、蝉の音もいつの間にか消えていた。
――こういう作業は昔から好きだった。頭がうるさい日は、なおさらだ。無心で手を動かしていると、余計なことを考えずに済むから……。
済むはずなのに……。
そっと息が漏れた。
「……ふぅ」
胸の奥の糸がふっと切れたように、力の入れ方さえわからなくなった。私はその場の冷蔵庫にもたれるように、頭を抱えて座り込んだ。
キッチンの魔光灯が、ちかちかと点滅し始めた。魔力切れの合図だ。じきに消える。
――ほら、消えた。
……暗くなると、やっと息ができた。
――――大丈夫。
――――――誰もいない。
――――――――今だけは、私ひとりだ。




