♣️赤い傷跡と、白い息
西日がカーテンの隙間から差し込み、橙色の揺らぎが瞼を照らす。眩しさを覚え、ゆっくりと身体を起こす。
時計の針は17時を少し回っている。耳をすませば、外から蝉の合唱が、雨上がりを待ち望んでいたかのように一斉に響き始めていた。その声は湿った空気の奥まで染み込んでいくようだった。
熱を含んだ空気の中に、雨の残り香がまだ沈んでいた。
腕の中に抱えた母の日記は依然として冷気を放っているようで、母の声がまだ紙の奥に潜んでいる気がする。ページを閉じても、あの声が耳の奥で微かに響いている気がした。それを手放しがたく思いながらも、元あった場所にそっと置く。
指先から離れた瞬間、手のひらに残った冷たさが胸の奥の熱と混ざり、夕暮れの光に溶けていくようだった。
深く息を吐くと、肩の力が少し抜けた。
……片付けをしてもらった挙句、随分と尚理を待たせてしまっている。早くいかないと。
僕は段ボールとガムテープを手に足早に母の部屋を出た。床にあった二つの足跡はすっかり蒸発して乾いてしまっていた。名残惜しさは、胸の奥で静かに沈み、思い出という形に変わっていった。
――リビングに戻ると、尚理は椅子を逆向きに座り、背もたれに顎を乗せて本を読んでいた。
僕の気配に気が付いたのか、しおり紐をページの間に掛け、本をぱたんと閉じる。
「お、やっと来たな。お前の部屋にあった本、勝手に借りて読んでるけど……良かったよな? それにしても、この小説面白いな。どこで見つけたんだ?」
こちらに向き直り、そう問いかけてくる尚理。
「照木さんに教えてもらったんだよ。照木さんも本をよく読むらしくて、おすすめを紹介してもらったんだ」
ふと、照木さんのことを思い出し、彼の足のことが心配になる。病院へは行っただろうが、どの程度の容体なのか気になった。
……大事じゃなければいいけどな。
「照木さんって、優と時々いる郵便配達員の人だったよな。そうか、あの人も本が好きなのか。今度見かけたら声かけてみよ」
知らない相手にも臆さず話に行けるフットワークの軽さを少し羨ましく思う。僕だったら絶対にできない。変に思われないかと考えてしまい、結局は足がすくんでしまう。
「ところで、優よ。片付けはまだ終わってないからな?」
そうだ、片付けはまだ終わっていない……。視線を客間へとやる。
ガラス戸に――
部屋の中心――そこには夕陽を吸い込んだような赤が静かに脈打つように沈んでいた。
「……お前の役目だろ。お母さんの涙を拭きとってあげるんだろ?」
その言葉に喉の渇きを覚えて、ごくりと生唾を飲み込む。
手が汗ばんで、鼓動が早くなるのを感じる。
「……そう……だね」
胸の奥がそっと波立って、あの赤に煽られたように口の中で血の匂いを思い出す。
「僕にしか出来ない。これだけは尚理には任せられない、僕だけの役目だ」
にこりと笑った尚理が、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
その笑みが、張り詰めていた空気をわずかにほどく。
「よし、ガラス戸は俺がやるから優は、部屋の真ん中の担当だな。すっかり乾いて固まってるから、お湯で蒸らしたタオルで拭き取るといいよ」
そう言いながら机の上に置きっぱなしだった白いタオルをぽんぽんと叩く。
小さな綿埃がたち、夕日に照らされきらきらと宙を舞う。尚理はタオルを手に取り、こちらへそれを差し出してくる。
僕はタオルを受け取り、段ボールとガムテープを手渡す。
直後、渡した手を尚理がつかんだ。僕は反射的に手を引こうとしたが、理性がそれを押しとどめた。つかまれた手に力が込められる。温かくも、硬い尚理の手は僕を逃がそうとはしなかった。
「――やれるよな」
尚理の瞳はまっすぐ僕を捉えていた。
僕は一呼吸置き、力強く頷く。
「よし! 取り掛かるぞ! ――っと、その前に優、お前の部屋からカッター借りるぞ。段ボールが少し大きいから、カットしないといけないからさ」
「……さっき、勝手に部屋に入ってたよね? 今更、何を言ってるんだか」
そう言うと尚理が一瞬むっとした顔をして、思わず口元が緩んだ。分かっている――僕の緊張をほぐそうとしているのだ。
尚理の手がほどかれ、背中を叩かれる。
僕はその勢いで、キッチンへと向かう。流し場でタオルを濡らし、軽く絞る。それを魔導レンジに入れ、満杯の水瓶を傾けるように、ゆっくりと魔力を注ぎ込む。
白い布がじんわりと温かさを帯びていくのを見つめながら、決心が凝固していく。
母さんの日記に綴られていた数多くの『どうして』――その答えはとうに失われてしまった。でも、確かに残されたものだって沢山あるはずだ。
記憶は消えない。思い出してつらくなる時だってあるだろう。それでも、それまでのものが流されてなくなったわけではない。思い出は傷となり、より強く凝固していくはずだ。
母さんにも、このことを伝えなくてはいけない。前を向いてしっかりと一緒に歩いていけるように。
魔導レンジの中の彩度を失くし、じりじりという鈍い魔道音が鳴り、現実に引き戻される。それを取り出し、客間の赤へと向き合う。
一歩一歩近づき、母が流した涙の多さに、心の空洞に『どうして』がまた響いた。僕は膝をつく。
ゆっくりと赤の輪郭にタオルを被せる。白いタオルが赤く染まっていく。優しく輪郭をなぞっていく。床に凝固していた赤は、手の中の白に移り替わりその姿を消していった。残ったのは、手に持った真っ赤に染まったタオルに、静かな傷跡だけだった。
ふっと、息が漏れ、肩から力が抜けた。
「終わったか?」
背後から聞き慣れた優しい声が飛んでくる。僕は何も言わずに首を縦に振った。
「ありがとうね……尚ちゃん」
――言った自分に驚いた。声が少し幼かった。




