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魔導生活譚  作者: mikotoROID


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15/21

♣️二つの足跡とひとりの足跡

「うわ……これは、ひどいな……」


 客間の様子を見て尚理が開口一番そう言った。その視線は僕の庇う足元へと移り――「何もするなって言ったのに」と眉を寄せ、大きなビニール袋の口を開けた。


「優、そこに座って足を出せ」


 僕は言われるがまま椅子に座って足を出す。

 尚理は袋の中から、包帯や消毒液、ガーゼやテープのようなものを取り出した。


「ちょっとしみるぞ」


 そう言って、僕の足裏に付いた血の周りを慎重にぬぐい始める。

 冷たい消毒液が傷口に触れた瞬間、思わず肩が跳ねた。


「我慢しろ。お前のお母さんの方がもっと痛い思いをしているはずだ。このくらい耐えてみせろ」


 尚理の指先は思ったよりも優しく、けれど迷いがなかった。

 ガーゼで血を拭き取るたび、雨と鉄の匂いが少しずつ遠のいて、消毒液の匂いが漂ってくる。

 正面の客間では、割れた窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らし、金属片が床を転がるかすかな音を立てる。


「何もするなって言ったのに、どうして部屋に入ったんだ?」


 問いかけられた瞬間、喉の奥がきゅっとしまった。


「……あの赤が、雨に汚されてしまう気がしたんだ」


 尚理の手が止まる。


「……赤?」


 その一言のあと、短い沈黙が落ちた。

 見上げた尚理の眉間に深い皺が寄り、視線が僕を射抜くように止まる。

 何も言わず、ただ内心を探るように僕の瞳を覗き込んでいた。


「……母さんの血……涙だと思った。だから……守らなきゃって思って……」


 自分でもおかしいと分かっている。けれど、あの時はそれしか考えられなかった。

 尚理は何も言わず、再び手を動かし始めた。包帯が足に巻き付く感触が、じわじわと心の奥まで染み込んでいく。


「……優、お前は悪くない。でも、次は俺が来るまで待て」


 その声は叱るでも慰めるでもなく、ただ真っ直ぐだった。

 僕はこくりと頷いた。


「ほら、もう少しで終わるぞ」


 その声に合わせて、僕の呼吸もゆっくりと落ち着いていった。

 包帯が足に巻き付く感触は、白い帯で描かれた輪のようで――その内側だけが静かで、安全な場所になった気がした。


 尚理は最後にテープを留め、軽く太ももを叩いた。


「よし、これで歩けるだろ。……でも、無理はするなよ」


 僕は小さくうなずき、視線を落としたまま「ありがとう」と呟いた。


「それと、尚理。靴下……」


 玄関から続く2つの濡れた足跡は、互い違いに並び、まるで誰かと並んで歩いた道のようだった。

 その輪郭が、胸の奥のこわばりをゆっくりとほどいていった。


「――あっ、悪い」


 尚理は振り向き、自分が残した足跡を見て、慌てて靴下を脱いだ。

 大きなビニール袋から新たに袋を出し、その中に靴下を放り込む。

 滅多に見られない尚理の失敗を見たような気がして、僕は思わず小さく笑ってしまう。


「なに笑ってるんだ?」


「いや別に、ただの思い出し笑いだよ」


 僕はそう何食わぬ顔で言ってみせる。

 疑わしげな目を向けてくる尚理に「本当だよ」と軽く返して誤魔化す。


「まあ、いいか」


 尚理は口元にわずかな笑みを残したまま、声の調子を切り替えた。

 そう言う尚理の耳は僅かに赤らんでいた。


「それじゃあ、優、お片付けの時間だ。掃除用の箒の場所は分かるよな? それとバスブーツと、床を拭く用のタオル何枚か用意してくれるか?」


 その問いに僕はドキリとした。


 ――自分のうちなのに掃除用具の場所がわからない。


 顔が少し熱くなるのを感じる。

 我が家のことを何も知らない子供みたいで、落ち着かなさを覚える。


 僕は一瞬だけ視線を泳がせてから答える。


「バスブーツとタオルは用意出来るけど、掃除用の箒はどこにあるかわからないよ……」


「じゃあ、箒は俺が持ってきたこの一本だけだな」


 そう言って、指の上で器用にくるくると回して見せる尚理。

 わざと僕を安心させるためにやっているように見えた。

 その行為に、胸の奥がざわつくような、不思議な感覚を覚えた。

 それが何なのかは、まだうまく表現できなかった。

 僕はそれをぎゅっと握りこぶしを作って小さくしようとする。


「じゃあ、優はバスブーツと、タオルを何枚か持ってきてくれ。俺はその間にお前の座ってるその椅子を使って、天井に刺さってる金属片を落としちゃうからさ」


「わかった。すぐ取ってくるよ」


 僕は脱衣所にあるバスブーツとタオルを取りに走る。

 濡れた床に足を取られそうになったが、尚理が巻いてくれた包帯が滑り止めの役割を果たしたおかげで、滑ってこけるようなドジにはならなかった。


 尚理が顔を覗かせ「大丈夫か~?」と声を掛けてくる。

 僕は「大丈夫、大丈夫」と返し、今度は濡れた床を踏まないように気を付けて早足に脱衣所に向かう。


 ――タオルは多めに4枚持っていこう。


 一枚一枚手に取り小脇に挟む。

 バスブーツを手に取り尚理の元へと戻る。


 廊下を戻る途中、ふと足元の濡れた足跡が目に入った。


 これも拭かなきゃな……。

 そう思うが、拭いてしまうのも惜しい気がした。

 この足跡は尚理が雨のなか駆けつけてくれた証だ。


 その足跡の輪郭は、まだ水気を帯びて光っていた。

 リビングから漏れ出る薄明かりが反射して、まるでそこだけが別の時間を閉じ込めているみたいだ。

 このまま残しておけば、きっと乾いて消えてしまう。


 ――それでも、今はまだ消したくなかった。


 僕はタオルを抱え直し、足跡を避けるようにして客間へ戻った。


 尚理は椅子の上で背伸びをして天井を見上げ、金属片を外していた。

 その動作は筆で字を書くように滑らかで、撫でられた箇所の金属片が床に落ち、乾いた音を立てて転がった。


「お、優、戻るの早かったな。もう少しで天井に引っ付いてるやつを全部落とし終わるから、そこで待っててくれるか」


 僕は机にタオルを置き尚理に向き直る。


「尚理もバスブーツ持ってきてたんだね」


 椅子の上で背伸びしている尚理の下の床には、うちのものではないバスブーツが置いてあった。


 尚理は天井から視線を外さずに「ああ、これか」と短く答えた。


「……これは俺用。二人で片付けをするんだ。二足ないと始まらないと思って、持ってきたんだ」


 そう言いながらも箒を動かす手は止まらない。

 やがて全部落とし終えたのか、「天井終わり」と元気よく言って椅子から降りる。


 バスブーツを履いて僕の隣に並び、部屋を見ている。

 きっと頭の中で算段を立ててくれているのだろう。


 僕は黙って言われることをやっているだけなのが申し訳なくて口を開いた。


「尚理、ガラス戸だけど、段ボールか何かで塞いだ方がいいかな?」


「お、優、いいところに目を付けたな。俺もそこが気になってたんだ。俺が持ってきたやつじゃどうにもなりそうになくてな……。段ボールかブルーシート、それとガムテープがあればいいんだけど、あるか?」


「段ボールなら、母さんの仕事用のがあるよ! ガムテープも持ってくるね!」


 僕は息を吸い込み、胸の奥に溜まった迷いを押し出すように、おなかに力を込めて言った。


「よし、それじゃあ頼む。行ったり来たりさせて悪いな」


「そんなことないよ。尚理こそ雨のなかわざわざ来てくれてありがとう。凄く心強いよ」


 尚理はその言葉に一瞬目を丸くし、照れくさそうに頬を掻いて笑顔を向けてくれた。


「……早く取ってこい」


 急に恥ずかしくなったのか、顔を背けぶっきらぼうにそう言う尚理。

 その言葉を背に廊下を駆けだす。


 廊下の濡れた足跡は乾き始め、その姿を消そうとしていた。

 僕はそれを忘れないよう瞼を閉じ、心のシャッターを切る。

 暗闇の奥に、濡れた輪郭が静かに焼き付いた。


 足を進め、先は母の部屋の前に立つ。

 ドアを開けた瞬間、母の匂いに混じって、長く閉ざされた空気の匂いが鼻をかすめた。

 昼間だというのにカーテンは閉じられ、薄暗い光がわずかに差し込むだけだ。


 部屋の机には本や衣類が置かれたまま、薄く埃をかぶっている。

 床にも同じように埃がうっすらと積もっていたが、ベッドへと続く細い道筋だけが、足跡で埃が掃われていた。


 その足跡は、さっき廊下で見た濡れた足跡と形こそ似ていたが、

 並ぶ相手もなく、ただ一人で歩いた痕跡のように見えた。


 僕は視線で足跡を追い、その足跡が途中で分かれ、机の方へと伸びていることに気づく。

 その足跡を辿り、母の机の上に置かれていた物に目が留まる。


 机の端には見慣れた一冊の日記があった。

 表紙は布地が擦り切れ、角は白く毛羽立っている。

 埃をかぶっているはずなのに、そこだけは指でなぞったように跡が残っていた。


 胸の奥がざわつく。

 視線が泳ぎ、日記に目がいく。


 ――それを何度繰り返しただろうか。

 足の裏には汗が滲み、埃が張り付く。


 迷いを飲み込んで、指先でそっと表紙を持ち上げる。

 紙の擦れる乾いた音が、部屋の静けさに溶けていく。


 ページを開くと――

 日付はおじいちゃんが亡くなった三日後で止まっていた。

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