♣️雨が混ざり合う前に
家の中を反響する『ただいま』。けれど、それにこたえる声はなく、ひとり寂しく消えてしまった。雨を纏う自身の匂いが薄らいだと思ったのも束の間、その匂いが濃くなったような気がする。
おかしいな……誰もいないのかな?
ふと靴箱を開けてみる。やっぱり靴がない。
なぜだか、鉄臭い匂いや、何かが焦げたような嫌な匂いが鼻に付く。その匂いを裏付けるように、リビングの方から生温い湿っぽい風が流れてきて、ゆっくりと頬をなぞった。
……何で風が流れてくるんだ?
窓でも空いているのかもしれない。でも、雨の中を開けっぱなしで出ていくなんて――。
疑問に思って靴を脱いでリビングへ向かう。暗い玄関から一歩一歩踏み出すたび床が軋み、リビングの窓から漏れ出る薄暗い光が近づく。濡れた靴下が床に足跡を残す。
匂いは濃くなり、そこが近いと告げていた。
リビングに着き、右手の客間の襖を目にする。
襖には、焦げた匂いを放つ黒い金属片が飛び出していた。
恐る恐る中を窺う。そこに広がっていた光景を見て息が詰まった。
ベランダに出るガラスは割れて床に散らばっていて、割れた窓からは雨が吹き込んでいた。部屋のあちこちには小さな金属片らしきものが飛び散っており、何より目を引いたのは部屋の中心――。
真っ赤に広がる赤い液体だった。魔光灯から発せられた光を反射し、波紋のように僅かに揺れていた。
鼻を刺す鉄の匂いが、ここから発せられていると悟った瞬間、震えだした足。呼吸が乱れ、心臓がドクン、ドクンと脈打つ。音が遠ざかり視界が次第に白んでいき、耳の奥で低い唸りが続く。世界がぐらっと傾いた。
――気が付いたら僕は床に倒れていた。後頭部が痛い。口いっぱいに血の匂いが広がる。
舌が痛い。どうやら倒れた拍子に噛んでしまったらしい。
体を起こすと改めて部屋の中心を見る。口に広がる匂いと、そこから発せられる匂いは同じだと悟った。途端に背筋が凍り付き、その場に縫い付けられたような感覚になる。それとは正反対に、心臓の鼓動は五月蠅いくらいに脈打っていた。このままではいけないと思いながらも、凍った思考は動き出さない。
…………どうしよう。母さんも、姉ちゃんもいない。父さんは仕事だし……。
――そうだ。尚理なら何とかしてくれるかもしれない。我ながら名案だと思った。
濡れた靴下をほっぽり、廊下を駆け抜ける。足音がやけに大きく響く。自室に入り、引き出しから自作の『友達電話帳』を引き抜く。それを持ってリビングの固定電話を手に取る。震える手でボタンを押していく。しばらくのコールののち、通話がつながった。
『もしもし、東家です』
聞き覚えのある声に、無意識に力が入っていた手から力が抜けた。
「もしもし、尚理。優だけど……」
『……どうした優? そっちから掛けてくるってことは、午後から遊ぶ約束ダメになったとかか?』
僕の声の様子からか、声を静めて問いかけてくる尚理。
「その……、帰ったらうちに誰もいなくて、部屋がめちゃくちゃになってて、ガラスも割れてるし、襖や壁にも金属のかけらだったりが刺さってるし、部屋の真ん中には血だまりができててどうしたらいいかわかんなくて……」
受話器の向こうで、短い沈黙が落ちた。
『……優、今家だよな?』
さっきまでの柔らかい声色が消え、低く抑えた声に変わっていた。
「うん」
『そこから動かず何もするな。すぐに行くから待ってろ』
その言葉と同時に通話が切れた。耳に残るのは雨と心臓の音だけだった。
僕はリビングの椅子に座って、ぼーっと客間の様子を見ていた。椅子に座っていることに気づいたのは、しばらくしてからだった。
吹き込む雨が床に水たまりを作り、じわじわと広がっていく。あと少しで部屋の真ん中の赤と混ざり合ってしまいそうだ。
はっとして上着を脱ごうとしたが、雨で張り付いて脱げない。諦めて拭けるものを探す。
――あった。キッチンに掛けてあるハンドタオル。それをひったくり客間に入る。何かを踏んだようで足裏に鋭い痛みが走る。それをこらえながら雨水を外へ押しやる。押しては返す波みたいな動きが、いつしか無心の作業になっていた。
部屋の中心の鮮やかな赤が、大切なもののように思えた。それが雨水で薄まるのが、たまらなく嫌だった。僕は人知れず涙をこぼした。
――これはきっと母さんの血だ。
おじいちゃんが死んでしまって、母さんはとても悲しんでいた。仕事での不注意から手を切っては、それが塞がらないうちに自分でまた同じ場所を抉っているように見えて……見ているだけで胸が痛くなった。
今朝の母さんの顔がよみがえる。あの瞳は何も映さず、目の前の包帯を巻いている姉ちゃんにも視線を向けていなかった。まるで、自分の内側にいるおじいちゃんを見ているようで――その瞳は僕たちを通り抜け、遠くの何かを見ているようだった。
――これは母さんの流した涙なのだ。
守らなきゃ、という思いだけが胸に残っていた。
いつまでそうしていたのだろう――風向きが変わり吹き込む雨がぴたりと止まった。タオルを強く握っていた手は真っ赤に染まり、手の皮がむけていた。ふっと力が抜けると同時に足の裏が痛む。見ると小さな金属片が足裏に刺さって血を滲ませていた。それを引っこ抜く。鋭い痛みが走るが、なんの感慨もわかなかった。その金属片を適当に投げ捨てる。
きーんという金属音が反響し、耳を打つ。ころころ転がった金属片の軌跡には赤い血の道ができていた。鼓膜の奥でその音がいつまでも渦を巻き、心臓の鼓動と重なっていった。
髪から滴る雨水を絞り落とし、零れた涙とともに拭き取る。
そこでふと、家の奥から誰かが小さく僕の名前を呼ぶ声がした。
僕はそっと立ち上がり、痛む足裏をかばいながら、そちらへ歩みを進めた。声は雨音に溶けて遠くから響くようで、近くから囁くようでもあった。玄関へ着き、声の主が誰かわかる。
「……尚……理?」
「おい優、大丈夫か!? チャイムを鳴らしても出ないし、扉をたたいても出てこないから心配したんだぞ!」
その声を聞いた途端、強張っていた肩の力が自然と抜けた。けれど胸の奥ではまだ心臓が小さく暴れていた。
「……ごめん、気が付かなかった。今開けるね」
いつもの手順。いつもの魔力の流し方。扉がガチャという音を立て、ロックが解除された。
扉を開けると尚理が立っていた。雨合羽姿で箒を2つ担ぎ、手にはパンパンになった大きなビニール袋。
不意に前髪を持ち上げられ、俯きがちだった顔を覗き込まれる。
「優、お前、本当に大丈夫か? 顔色悪いぞ」
その言葉に、冷えていた心がゆっくり解きほぐされていく。
「……ちょっと……疲れちゃったかな」
疲れを隠せていない笑みを浮かべる。
「……そっか。じゃあこの後、遊ぶのは無理そうだな」
軽口を叩きつつも尚理は「お邪魔しまーす」と言って雨合羽を脱ぎ、リビングの方へ向かう。僕もそのあとを追った。
尚理の背中を追いかけながら、ふと床に目をやる。そこには僕のものとは違う濡れた足跡が、リビングの薄明かりへと続いていた。
きっと、雨の中を急いで駆けつけてくれた尚理のものだ。
その足跡を見た瞬間、本当に来てくれたのだと実感した。外の雨音とは無関係に、その輪郭だけが胸の奥で静かに光っていた。




