婚姻契約【後編】
「――そうすると、女男爵様の財産への夫側の管理権の設定については先方が折れてくれるはずだとおっしゃるのですね、女男爵様?」
アメリアとミスター・ラドラムは、時間をかけて現在交渉が難航している争点を洗い出し、メラヴェル男爵家として防衛すべき点とそうでない点の区別を付けようとしていた。
「ええ、アルバート卿ご自身は管理権まで要求なさらないでしょう。そんなことしなくても彼には十分な財産がお有りなんですもの」
アメリアは穏やかな口調で言った。
この点は「防衛すべきだが心配する必要のない点」に分類された。
ミスター・ラドラムは手元の書類に素早くメモを書き足した。
「それから、メラヴェル男爵家の屋敷に対する彼の権利だったわね?」
「ええ、先方は未来のご夫君にも女男爵様と同等の使用権を要求しています。更に、女男爵様の死後の居住権もです。しかし、あくまでお子様の権利とされるべきでは?」
アメリアは頬に手を当ててしばし思案した。
彼に使用権を認めたとして、現実的に何か害があるだろうか?
アメリアの死後、次代男爵に屋敷の所有権が移っても居座る?
しかし、アメリア以外に男爵家の子孫がいない今、次代男爵になるのはアメリアとアルバート卿の子孫以外考えられない。
父親が使用権を主張したところで問題はなさそうだ。
その子と彼が不仲になることは考えられるが、彼には他に自分の屋敷があるのだから無理に居座ることもないだろう。
あとは、他人に使用権を売ってしまう?担保に入れてしまう?
彼がそうするとはあまり思えないが、それならそれを禁止する条件をつければ良さそうだ。
「制限付きの使用権と彼の生存中の居住権は認めましょう」
「お言葉ですが、女男爵様。あなたのような地位にある女性が一般の女性のようにご夫君に甘くてはいけませんよ」
アメリアの寛大な言葉にミスター・ラドラムは憤然として言った。
しかし、彼女は含みのある微笑みを浮かべた。
「あら、私は甘くないわよ、ミスター・ラドラム。他の譲れない点に集中しようと言っているだけです。特に子供についてね。当家にはどうしても跡取りが必要ですから」
そう言う彼女のヘーゼルの瞳はいたずらっぽく輝いていた。
「例えば、子が生まれたら、その姓を父方の姓ではなく複合姓にすることを約束してもらいます――複合姓を採用する申請は父親からするものですからね。つまり、"モントローズ=ハーコート"ではなく、"モントローズ=ハーコート=グレンロス"ということ。その子が侯爵家の爵位を継ぐ場合も同じよ。どうあっても"グレンロス"の名は残してもらわないと」
ミスター・ラドラムは少し目を見開いたが、黙って頷いた。
それを見てアメリアも笑みを返した。
「それから、万一、離婚したとしても、子の親権者は私です。一般の夫婦のように父親に渡すわけにはいかないわ。メラヴェル男爵家の血筋の者が後継者を養育できないなんて、必死に男爵家を守ろうとした先代に申し訳が立たないでしょう?」
「さすが女男爵様」
ようやくミスター・ラドラムの表情も少し和らいだ。
彼はパラパラと書類の束を捲り、主な論点を整理しきったことを確かめて頷いた。
「いずれにしても、8月末までには文書にまとめて署名まで終わらせないと。でも、私の襲爵を巡って特権委員会と渡り合ったあなたなら心配ないわね?ミスター・ラドラム」
「当然です、女男爵様。特権委員会に比べればミスター・オルディンなど赤子も同然ですよ」
アメリアは思わず笑ってしまった。
ミスター・オルディンを一度だけ見たことがあるが、あの髭面の紳士が赤子とは。
「とにかく期待しているわよ、ミスター・ラドラム」
気高い女男爵の言葉に男爵家の事務弁護士は厳めしく頷いた。
***
ミスター・ラドラムが帰った後、アメリアはテラスでお茶を飲みながら母ミセス・グレンロスに事の次第を報告していた。
「――というわけで、防衛すべき点とそうでない点について私から明確に指示したから、きっと交渉は進むと思うの」
アメリアはそう言ってティーカップを口に運んだ。
今や何の心配もなく馨しい紅茶を堪能することができた。
母は婚姻契約にはあまり意見がないかもしれないというのがアメリアの見立てだった。
一般的な令嬢とは違って今のアメリアには自分の確かな財産があるし、それに何より、母は娘の結婚を機に別の屋敷に引っ越すつもりでいるので、今はその準備のことで頭がいっぱいのはずだからだ。
しかし、彼女の見立ては外れた。
「そうね。あなたの指示はほぼ十分だと思いますよ、アメリア」
「"ほぼ"?」
アメリアは目を見開いた。
確かに譲歩した部分はあるが、あくまで男爵家の財産に影響しない範囲でのことだ。
何か考慮不足があっただろうか?
「アルバート卿の信託利益の用途のことですよ」
「彼が亡くなった後のこと?それならきっと子供を残余受益者にしてくれるのではないかしら?」
「それはそうかもしれないけれど、彼が生きている間の取り決めも必要よ」
ミセス・グレンロスは紅茶に砂糖を溶かしながらも鋭い口調で言った。
「彼の信託利益の一部は、確実にあなたと子供の扶養に当ててもらえるよう義務として明記しておかないと」
アメリアは僅かに眉を寄せた。
確かに持参金以外に財産がない女性であれば、夫に扶養を求めることは必要かもしれない。
しかし、アメリアには自身の爵位があり、その爵位に伴う財産がある。
そのアメリアの思考を見透かすようにミセス・グレンロスは目を細めた。
「あなたは妻なのですから、夫に養ってもらえるようにしておくべきよ」
「……そうかしら?」
アメリアは正直母の主張には賛同しかねた。
そもそも、アルバート卿が女男爵という複雑な立場にある自分の夫になってくれるだけでもありがたいのに……。
「よく考えなさい。現実には愛情だけでは暮らしていけないのよ」
アメリアはひとまずは母の言葉に頷きながらも、どこか釈然としない思いを抱いていた。
***
その翌月、婚姻契約の条件がようやくまとまりかけた頃、アルバート卿が<メラヴェリー・マナー>に訪ねてきた。
それぞれの家の領地に移ってから初めての再会だった。
「当家の事務弁護士からようやく婚姻契約が書面にまとまりそうだと聞きました。意外と時間がかかりましたね」
「ええ、ようやくですわね」
二人は午後の<メラヴェリー・マナー>の庭を散策していた。
既に婚約が内定しているとはいえ、彼らが二人きりで話すには、庭の散歩を口実にしなければならなかった。
アメリアは白い日傘を差していたが、日差しは既に秋の気配を帯びていた。
庭の樫の木の葉も徐々に銅色に変化してきている。
「でも、本当にまとまるのかしら?」
「いざとなったら今メラヴェル男爵家が提示している条件通りで合意しますよ」
「あら、随分寛大なのですね、アルバート卿」
先を歩いていたアメリアは振り返って笑顔を向けた。
アルバート卿もまた微笑みを返す。
「結局のところ、私の方は個人の財産だけですからね。侯爵家の財産は限嗣相続制で守られているのでまず心配ない。でも、あなたには男爵家の財産と血筋に対する責任がありますから」
アメリアは足元に視線を落とした。
歩みを進めるごとに翻る午後用のドレスの裾がなんだか頼りなく見えた。
「……何か心配事があるようですね、レディ・メラヴェル?」
アメリアが沈黙していると、アルバート卿が言った。
彼女は少し躊躇いながら切り出した。
「アルバート卿、あなたのおっしゃる通り、私には男爵家の財産と血筋に対する責任があります。でも、逆に言えば、その責任さえ果たせればよいと思っていましたの」
アメリアは歩みを止めて、いつの間にか遠く離れてしまった屋敷の建物を眺めた。
庭を涼しい風が通った。
アメリアはもう少し袖の長いドレスにするべきだったかもしれないと思った。
「でも、母は今提示している条件以上のことを要求すべきだと言うのです。例えば、あなたの信託利益で私や子供を養う義務を設定しておくべきだと……」
「なるほど」
「でも、少しおかしくはありません?当家は私の女男爵という特殊な立場を考慮して財産の独立を主張していたはずなのに、一方では普通の妻として夫に扶養を要求するなど」
アメリアのヘーゼルの瞳が真っ直ぐにアルバート卿を見つめていた。
彼は少し思案してから言った。
「確かにあなたの言う通り矛盾がありますね」
「そうでしょう?こんな論理的整合性に欠けることをあなたに要求するなんて」
アメリアは俯いて、意味もなく日傘の柄を握る手元を見つめた。
アルバート卿はそんな彼女の横顔を見ながら言った。
「あなたもご存じの通り、私は論理を重んじる人間です。でも、柔軟性がないわけでありませんよ」
「あら、あなたに要求を呑んでいただこうと思って言ったわけではないのですよ」
アメリアが慌てて言うと、アルバート卿は穏やかに答えた。
「ええ、わかっていますよ。それに、私が要求を呑んでも、あなたが納得できなければ意味がありません」
彼はいつになく優しい口調で続けた。
「そうだな……こういうのはどうでしょう?私には、限嗣相続の対象外の屋敷が二、三ありますから、それを男爵位を継がない子供に残すというのは?あなたの居住権も設定しておきますよ。それなら、私は死後にあなたと子供への義務を果たしますが、生前の財産の独立性は保つことができます」
アメリアは口を開きかけたが、すぐには言葉が出なかった。
そんな彼女の様子にアルバート卿はただ微笑んで言った。
「もっとも、それでは足りないくらい子供が生まれる可能性もありますね。でも、あなたの屋敷と合わせれば七人くらいまでならなんとかなるでしょう?」
彼の言葉にアメリアは、まず目を見開き、次に口元に笑みを浮かべた。
七人も子供が生まれたら屋敷の配分を考える暇もないくらい騒がしい毎日になりそうだ。
「あなたが私の立場を尊重してくださっているのはわかっています。ただ、私は、あなたのお母様にも安心してこの結婚を祝ってもらいたいのですよ、レディ・メラヴェル」
彼がそう言って差し出した腕を、アメリアは自然にとっていた。
触れた部分から二人の体温が伝わり、お互いを温めた。
そして、アルバート卿は至極真面目な顔になって続けた。
「それに……あなたはお笑いになるかもしれませんが――今、私にとって一番大事なのは、秋口に私たちが揃って招待されているエルデンハースト伯爵家のハウスパーティーにあなたと婚約者同士として出席することなのです。それまでには正式に婚約を発表できていないと困ります」
「あら、本当に?私も同じように思っていましたの」
アメリアのヘーゼルの瞳の輝きに、アルバート卿は思わず微笑んだ。
「……ありがとう、アルバート卿」
囁かれた言葉を合図に、彼らは屋敷の方へと歩き出した。
寄り添う背中を夏の終わりの太陽が優しく照らしていた。
正式に婚約者になるとどんな良いことがあるのかは、おそらく次話で言及できるかと思います。




